第16話:戦う前に勝つ経営戦略
「アーク様、帝国軍を動かしていただくのは大変心強いですが……軍を直接ぶつけ合う必要すらありませんわ。戦いというものは、剣を交える前に決着をつけておくのが上策です」
進軍を開始したグランベル王国軍三千の報せを受け、私は領主執務室の巨大な作戦卓の前で不敵な笑みを浮かべた。
隣に立つアークが、興味深そうに深みのある紺色の瞳を輝かせる。
「ほう……? 兵を動かさずに、三千の大軍を退けるというのかい?」
「ええ。戦争とは圧倒的な『資金』と『物資』を消費する巨大な公共事業のようなものよ。兵士が動くには食料が必要であり、馬が走るには馬飼料が必要。そしてそれらを運ぶ商人や人夫への支払いが不可欠だわ。……ですが、今のグランベル王国軍に、どれほどの資金と補給能力があるかしら?」
「皆無に等しいだろうね。給与の支払いすら滞り、今回の遠征費用も国庫の最後の一滴を絞り出したものだ」
「だったら話は簡単よ。彼らの命綱である『物流』と『資金循環』を、こちらの手で完全にカットしてあげるわ」
私は即座に、周囲の提携領地およびヴァン・ダール商会をはじめとする全提携商会へ向けて、一つの緊急通達を発令した。
『対グランベル王国遠征軍・全域経済封鎖の発動』である。
◇
シルフィード領が有する圧倒的な資金力と情報網、そして市場における絶対的な影響力をフル活用した作戦が、電光石火のスピードで展開された。
王国軍三千がシルフィード領へ向けて進軍する予定ルート上にあるすべての村、町、そして領地に対し、私は先手を打って巨大な買い付けを行ったのだ。軍が現地調達(徴発)しようと考えていた穀物、干し肉、馬飼料に至るまで、市場に存在するすべての兵糧をシルフィード領の潤沢な金貨で「市場価格の1.5倍」という破格の値段で買い占めたのである。
さらに、王国軍へ物資を供給・運搬していた外部の商人たちに対し、強烈な通告を言い渡した。
「本日以降、グランベル王国軍に物資や輸送手段を提供した商会とは、シルフィード経済圏におけるすべての取引を永久に停止(ブラックリスト化)します」
シルフィード領の「神樹の石鹸」や「ハーブ蒸留酒」の販売権を失うことは、商人にとって倒産を意味する。この通告が出された瞬間、軍に同行していた民間商人たちは一斉に荷車を乗り捨て、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
◇
「報告です! 前方の村に食料が一切残っておりません! 水汲み場の井戸すら固く閉ざされております!」 「商人たちが兵糧の売却を拒否! 資金の支払いは金貨現物のみと突っぱねられ、紙くず同然の王国手形は受け取れないと断られました!」
進軍開始からわずか三日。シルフィード領の国境まであと半日の距離に迫った街道上で、王国軍の陣営はパニックに包まれていた。
鎧を纏った兵士たちは空腹で腹を鳴らし、足元をふらつかせている。軍を率いる将軍は、真っ青な顔で兵糧庫の空箱を叩きつけた。
「馬鹿な……! なぜ村々に穀物一つ残っていないのだ!? 商人どもはどこへ消えた!?」
「ひ、引き返そうにも、後方の補給部隊もすでに兵糧が底をつき……我々は完全に孤立しております!」
「くそっ……! これでは戦うどころではないぞ!」
武器を振るうまでもなく、王国軍の兵糧は完全に尽きていた。
兵士たちに配られる食事は日に日に泥水のような薄いスープ一杯になり、空腹と疲労で士気はどん底まで低下。夜闇に乗じて武器を捨て、故郷へ逃亡する兵士が相次いだ。
「これが、私の構築した『経済的包囲網』よ」
領主館のテラスから、遠くの街道の様子を望遠鏡で観察していた私は、満足げに紅茶を口に含んだ。
「戦力差で勝つのではない。相手が『戦う構造』そのものを無効化する。物流と信用を制する者が、戦場をも制するのよ」
「……恐ろしいね、君の頭脳は」
隣に立つアークが、心からの感嘆を込めて苦笑した。
「剣をひと振りも交えず、一滴の血も流さずに三千の軍隊を無力化してしまうとは。君を敵に回した者が、いかに愚かだったか……あの将軍たちも今頃身にしみて理解しているだろうね」
「ふふ、ビジネスも戦争も、リソース管理(資源配分)がすべてよ」
私は優雅にドレスの裾を揺らし、冷ややかな瞳で前線を見つめた。
空腹で虫の息となった王国軍が、シルフィード領の境界線へと辿り着く頃——そこには、さらなる「絶望」が彼らを待ち受けているのだった。




