世界の余白
私の中に蘇った前世の記憶。その「引き出し」を一つずつ開け、整理する作業は、深夜の暗闇の中でひっそりと行われた。
前世の世界において、私が熱中していた娯楽の一つ、言わずもがな「乙女ゲーム」。あるいは、それに類する女性向けの恋愛ファンタジー系コンテンツ。
それらの物語には、ある共通したお約束――「テンプレ」が当然存在する。
身分制度のあるヨーロッパ風の異世界。魔法の存在。美しい貴族の子弟たち。そして、彼らと恋に落ちる特別な力を持ったヒロイン。定番中の定番だ
もし、私の仮説が正しいのなら。
この世界が、誰かが創り上げた「シナリオ」に沿って動く人形劇なのだとしたら、そのシナリオの中心には必ず、物語を牽引する主要なキャラクターたちが絶対に存在するはずだ。
乙女ゲームで言うところの「攻略対象」たち。主人公、ヒロイン。
彼らは世界から特別な役割を与えられ、一般の有象無象とは一線を画す、極端なまでに際立った設定を持っている。
「まずは、その『特別な存在』を探し出すこと……」
私は日本語で書かれた手帳を胸に抱きしめ、天蓋付きのベッドの中で誓った。
翌朝から、私の孤独な調査が始まった。
「お嬢様、本日のご予定ですが、午後からアメリア様とベアトリス様をお招きしてお茶会がございます。お庭のガゼボに席をご用意いたしましょうか?」
朝、私の髪を整えながら、ミーナがそういつものように尋ねてきた。彼女の表情には、いつもの「凝固」の痕跡など微塵も残っていない。そう、いつも通りの、何気ない日常。よく気がつく忠実な侍女だ。
だが私は、彼女が髪を梳くブラシの手元を、鏡越しに冷徹な目で見つめていた。
「ええ、お願い。お天気も良いし、薔薇が綺麗に咲いているから外が良いわ」
「かしこまりました。では、焼き立てのスコーンと、レモンピールのジャムをご用意させますね」
「ありがとう……ミーナ」
平穏を装いながら、私は心のノートに書き留める。
昨日の出来事は、当然のように、ミーナの記憶からは綺麗さっぱり消去されている。彼女に昨日のことを問い詰めれば、またあの不気味な「空白の数秒」を引き起こしてしまうだろう。それは避けたかった。世界の修正機能が、私の「不審な行動」を検知して作動するのを恐れたからだ。
私は、世界の「完璧な背景」として振る舞いながら、必要な情報を集めなければならない。
お茶会は、絶好の情報収集の場だった。
同じ年の貴族令嬢たちが集まれば、話題は自ずと、王都で目立つ若き男性たちの噂に集中する。
午後、心地よい風が吹き抜けるガゼボ。
アメリアとベアトリスは、運ばれてきたダージリンティーの香りを楽しみながら、期待に満ちた表情で私を見つめていた。
「それにしても、レティシア。ギルバート様とのご婚約、本当に羨ましいわ。近衛騎士団の副団長という若さでありながら、あの冷徹で美しいお姿……。まるで神話の騎士様そのものですもの」
アメリアが両手を頬に当て、うっとりとしたため息をつく。
ギルバートは、この世界の「攻略対象」の一人なのだろうか……。確かに、身分、容姿、地位、すべてが完璧すぎる。
「ありがとう、アメリア。でも、私には少し勿体ないくらいよ。ところで、皆様……最近、王都で他に注目されている殿方はどなたかいらして? 魔法学園の入学式も近いですし、少し気になってしまって」
私は、世間話のトーンを崩さないよう、注意深く微笑みながら水を向けた。
ベアトリスが待ってましたとばかりに、扇で口元を隠しながら身を乗り出してきた。
「まあ、レティシア。そんなの、決まっていますわ。今一番の噂と言えば、やはりアルドワーズ公爵家のご嫡男、エドガー様でしょう?」
「エドガー・フォン・アルドワーズ様……」
私はその名を聞き、胸の奥で息をのんだ。
アルドワーズ公爵家。我が国でも屈指の歴史を持つ名家だが、その跡取りについては、前世の知識が激しく警鐘を鳴らすほどの「設定」があったはず。
「ええ。何でも、わずか十歳にして国の『大魔導士』の称号を授与されたとか。それほどの神童でありながら、生まれた時から一度も笑ったことがないという、氷の美少年なのですって」
典型だ。
感情を失った天才魔術師。ヒロインの愛によって、凍りついた心が溶かされ、初めて笑顔を見せる――そんなシナリオが脳裏に鮮明に浮かび上がる。
「それに、もうお一方は外せませんわ。我が国の第一王子、ルシアン殿下よ」
アメリアが興奮気味に言葉を重ねる。
「ルシアン殿下。誰も近づけないほどに傲慢で、不遜な態度。他者を寄せ付けない冷酷さをお持ちですが、そのお姿は太陽のように眩しい金髪で、全女子学園生徒の憧れの的……。王立学園の最上級生であらせられますが、その圧倒的なカリスマ性に、ひれ伏さない者はいないと言われていますわ」
これも、あまりにも典型的すぎた。
身分違いの平民や、あるいは毅然と立ち向かうヒロインに対して、「おもしろい女だ」と言い放つタイプのキャラクター。
私は、手元の紅茶を一口飲み、喉の渇きを潤した。
エドガー、ルシアン、そして私の婚約者であるギルバート。彼らは間違いなく、この世界を構成する「中心軸」の人物の一部だ。
私の周囲に転がっている不自然な記憶障害は、彼らを輝かせ、彼らを中心としたシナリオを円滑に進めるための「都合のいい調整」の結果なのだろう。
その時だった。
私の脳裏に、冷ややかな、だが鋭い不快感が走った。
「そういえば、ルシアン殿下は、先月の建国記念式典の際……」
アメリアが熱心に語ろうとした、その瞬間。
彼女の動きが、唐突に止まった。
紅茶のカップを口元に運ぼうとした姿勢のまま、彼女の細い指先が固まっている。彼女の隣にいたベアトリスも、楽しげに相槌を打とうと口を開けた形のまま、完全に静止していた。
ガゼボを吹き抜ける風が、彼女たちの金髪や栗色の髪を揺らす。薔薇の葉がカサカサと音を立てる。
世界は動いている。だが、アメリアとベアトリスの二人だけが、完全に「停止」しているのだ。
私は、息を殺してそれを見つめた。
一秒。二秒。三秒。
アメリアの、美しく調えられた瞳から、すっと光が消えていた。それは、魂が肉体から一時的に離脱したかのような、あるいは液晶画面の電源が落ちたかのような、虚無のガラス玉。
四秒。五秒。
私の手の中で、スプーンが微かにカタカタと震えた。それを必死で抑え込む。
六秒。
「……本当に、素晴らしいお姿でしたわよね、レティシア?」
アメリアの瞳に、パッと光が戻った。彼女は何事もなかったかのように紅茶を飲み、私に微笑みかける。
「ええ、ええ。本当に。それで……ルシアン殿下は、式典でどのようなご様子だったの?」
私が努めて冷静を装い、会話を促すと、アメリアは一瞬、不思議そうな顔をして首を傾げた。
「え? ……何の話かしら、レティシア。私、何か殿方のお話をしていましたっけ?」
「……ええ。ルシアン殿下のお話を」
「あら、そうだったかしら? どうも最近、お喋りに夢中になると、自分が何を話していたか忘れてしまうのよね。嫌だわ、まだ若いつもりなのに、もう御母様みたいな物忘れをするなんて」
アメリアはコロコロと上品に笑った。ベアトリスも「本当ね、アメリア。私も最近、お気に入りのリボンの場所を忘れてしまって」と同調する。
アメリアは、単に「お喋りに夢中で忘れた」のではない。
彼女の脳内から、ルシアン殿下の具体的な行動に関する情報、あるいは彼女自身が口にしようとした何らかの「シナリオ外のノイズ」が、あの六秒間で根こそぎ削ぎ落とされたのだ。
私は、背筋に走る氷のような悪寒に耐えながら、二人に合わせて愛想笑いを浮かべた。
狂っている。この世界の誰もが、日常的に脳を書き換えられているような。そして、そのことに誰一人として気づいていない。
「お茶会」という名の、あまりにも精巧な人形芝居。
私はその舞台の上で、ただ一人、観客席から彼らを見つめているような、凄まじい孤独感に苛まれていた。
お茶会が終わり、二人が帰路についた後。
私は伯爵家の書庫に籠もり、膨大な書類や領地の記録、そして王都の地図を広げていた。
私の部屋の机の上には、日本語で書かれた「相関図」と「世界地図」が並んでいる。
地道な調査。それは気の遠くなるような、精神を削る作業だった。
私は伯爵家の執事や、出入りする商人たち、さらには庭掃除の老人に至るまで、さりげない会話を装って質問を重ね、その裏付けを取っていった。
「アルドワーズ公爵家のエドガー様が、大魔導士の称号を得たのは、本当に十歳の時ですか?」
「ええ、お嬢様。確かな記録がございます。ただ……それが具体的にどの魔法によるものだったか、どうにも詳細が思い出せませんが……。まあ、昔のことですからな」
「王立学園の生徒数は、毎年正確に同じ人数だと聞きましたが?」
「はい。……あれ、そうでしたかな? 確か、毎年、定員は……。おや、頭が痛むな。申し訳ありません、お嬢様、少々風邪気味のようです」
誰もが、設定の「核心」に触れようとすると、一様に思考を停止し、忘却する。
彼らの頭の中にある歴史や設定は、まるで「印刷された本」の最初の数ページだけが本物で、残りのページは白紙のまま、誰かがその都度、適当な文字を書き加えているかのようだった。
「……やっぱり、この世界は、ただの舞台なのかも」
私は机に突っ伏し、乾いた笑いを漏らした。
私たちが生きているこのアルノー伯爵邸も、王都の美しい街並みも、すべては物語を成立させるための「背景」に過ぎない。
私たちが日々感じている喜びや悲しみ、積み重ねてきた人生。それすらも、あらかじめ決められたプログラムの作動結果に過ぎないとしたら。
私の婚約者であるギルバートが、私に注いでくれるあの甘い眼差しも、すべては「婚約者」という役割が彼に命じているだけの、偽りの感情なのだろうか。
「違う……そんなはずはない」
私は頭を振り、胸に手を当てた。
ギルバートの手の温もり。私のことを気遣う、あの少し不器用な声。あれが、ただの「プログラム」だなんて思いたくない。もしあれが偽物なら、私は何を信じてこの世界で生きていけばいいのか。
苦痛と恐怖。そして、誰にも共有できない孤独。
私は、狂気の深淵の縁に立たされているようだった。毎夜、眠りに就くのが恐ろしかった。目覚めた時、私自身の前世の記憶も、この「不審」を抱く自我も、すべて消去されて、ただの「レティシア・アルノーという」に書き換えられているのではないかと、そればかりを考えてしまう。
それでも、私は調査を止めるわけにはいかなかった。
ギルバートを、そして自分自身を、この見えない『呪い』から救い出す道が、どこかにあるはずだと信じて。
調査を開始してから、三週間が経過した頃。
私は、それまでに集めた膨大な「人々の言葉」の断片を、日本語のノートに整理していた。
それは、私がお茶会で令嬢たちから聞き出した噂話、書庫の古い記録、そして伯爵邸の使用人や、街のパン屋、仕立て屋の主人たちとの、何気ない会話のすべて。
何十人、何百人もの言葉を書き出し、それを俯瞰して眺めていた時。
私は、ある奇妙な「歪み」に気がついた。
最初は、ただの偶然だと思っていた。
だが、書き出された彼らの発言の「文脈」を追っていくと、そこには明確な、そして不自然極まりない共通のパターンが存在していたのだ。
それは――『特定の場所』に対する、徹底した忘却と回避。
私は、王都の精巧な地図を机の上に広げた。
中心にある王宮。それを取り囲む貴族街、平民たちの暮らす商業区、そして美しく整備された、私たちの通う王立学園。
私が商人たちに「仕入れのルート」を尋ねた時のこと。
「東の街道から入るのが一番早いですが、あの『古い森の境界』の近くは通りません。なぜかって……? さあ、道が悪いからでしょうか。いや、あそこには道なんて……ありましたかな?」
私が仕立て屋の主人に「美しい絹織物の産地」について尋ねた時のこと。
「西の渓谷を越えた先にある、古い神殿の跡地……。あそこは、近づいてはならないと、子供の頃から言われております。理由は……いえ、ただの崖崩れが多い場所だったはずです。そう、崖崩れです」
私が令嬢たちに「ピクニックに最適な場所」を尋ねた時のこと。
「王都の北西にある、あの古い湖の周辺は、お勧めしませんわ。あそこは……何かしら。空気があまり良くないの。どうしてかって……? さあ、どなたかがおっしゃっていたの。でも、誰だったかしら」
東の森の境界。
西の渓谷の神殿跡。
北西の古い湖。
地図の上に、それらの場所にインクで印をつけていく。
驚くべきことに、これらの場所は、どれも王都からさほど遠くない、本来であれば活発に行き来があってもおかしくない場所だった。
それなのに、すべての人々が、それらの場所の話題になると、例外なく「不自然な凝固」を起こし、話題をそらし、あるいは近づくことを本能的に避けているのだ。
まるで、その場所だけが、この世界のシステムにおいて「侵入禁止エリア」に指定されているかのように。
あるいは、そこには「シナリオがまだ書き込まれていない、世界の空白(余白)」が存在しているかのように。
「特定の場所を、避けている……」
私は、インクの乾いていない地図をじっと見つめた。
もし、この世界を縛る『呪い』――すべての人々の記憶を都合よく書き換え、シナリオ通りに動かしているシステムが存在するのだとしたら。
そのシステムの影響が及ばない、あるいはシステムの「綻び」が存在する場所が、そこにあるのではないか。
前世のゲームの知識が囁く。
バグが起きやすいのは、いつだって「世界の境界線」や「未実装のエリア」だ。
そこに行けば、この世界の真実に繋がる、何らかの鍵が見つかるかもしれない。
「レティシア、何をしているんだい?」
不意に、背後から声をかけられた。
私の心臓が、跳ね上がる。
いつの間にか、私の部屋の扉が開いていた。そこに立っていたのは、いつもの優しい微笑みを湛えた、私の婚約者――ギルバートだった。
私は慌てて、日本語で書かれた手帳を他の書類の下に隠し、王都の地図を体で覆い隠すようにして、彼を振り返った。
「ギルバート様……。お、驚きましたわ、お越しになっていたの……ですね」
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだ。ミーナが、君がずっと書庫や自室に籠もっていると聞いて、心配していたから、少し様子を見に来たんだよ」
ギルバートは、ゆっくりと私に近づいてきた。その氷冷色の瞳が、私の背後にある地図に、そして私が隠そうとした書類の束に、一瞬だけ、鋭く向けられた。
「ずいぶんと、熱心に地図を調べているようだね。……何か、探しているものでもあるのかい?」
彼の声は、いつも通り優しかった。
だが、その瞳の奥には、いつもと違う、どこか冷徹で、観察するような「何か」が潜んでいるように思えて、私は息が詰まるのを感じた。
これは、ギルバート自身の意思なのだろうか。
それとも、私という「バグ」を監視するために、世界が彼を動かしているのだろうか――。
私は、乾いた喉を無理やり動かし、微笑みを作った。
「ええ……。少し、学園に入学する前に、王都の歴史や地理をおさらいしておこうと思いまして」
歪み始めた世界の中で、私の孤独な「脱出」への模索は、もう引き返せないところまで来ていた。




