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【連載完結】婚約者の溺愛が本物だと信じたいけれど…  作者: 逆立ちハムスター


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崩壊の音

鏡の向こうにいるのは、燃えるような燃えるような、と表現するには少し冷ややかな、深い葡萄色の髪を持った少女だった。

レティシア・アルノー。それが、この世界における私の名前だ。アルノー伯爵家の長女であり、今年で十八歳になる。


私が「前世」と呼ばれる、ここではないどこかの記憶を取り戻したのは、半年前のことだった。

激しい高熱にうなされ、三日三晩生死の境を彷徨った末に目を覚ました時、私の脳内には二つの記憶が完全に融合した状態で存在していた。一つは、この魔法と貴族社会が存在する異世界で生きてきた伯爵令嬢としての記憶。そしてもう一つは、科学技術が発達した灰色の空の街で、満員電車に揺られながら事務職として働いていた、どこにでもいる「私」の記憶。


前世の記憶が戻ったからといって、世界が急変したわけではない。私は相変わらず伯爵令嬢であり、美しいドレスを纏い、お茶会に出席し、洗練されたマナーで微笑みを振りまいていた。ただ一つ変わったことと言えば、世界を俯瞰して見るための「客観的な視点」を手に入れたことくらいだった。


しかし、その客観性こそが、私を底なしの疑心暗鬼へと引きずり込む引き金になったのだ。


「お嬢様、本日の髪飾りはどちらになさいますか? 先日、ギルバート様から贈られた、あの美しいサファイアのものがよろしいかと」


背後から声をかけてきたのは、幼い頃から私に仕えている侍女のミーナだった。彼女は私の髪を丁寧に梳かしながら、鏡越しに小首を傾げている。

私は手元に置いた木製の小箱に視線を落とした。そこには、透き通るような青い輝きを放つサファイアの髪飾りがある。私の婚約者であるギルバート・フォン・レディウス公爵令息が、先月の私の誕生日に贈ってくれたものだ。


「ええ、それに狂いはないわ、ミーナ。でも、ギルバート様からいただいたのは、先月ではなく『三ヶ月前』の、私たちの婚約記念日よ。先月の私の誕生日にいただいたのは、あちらの真珠のネックレスでしょう?」


私が部屋の隅にあるジュエリーボックスを指さすと、ミーナは一瞬、動きを止めた。

その瞳の奥が、ガラス玉のように生気を失ったかと思うほど、不自然に静止する。ほんの二秒、あるいは三秒。彼女の思考が完全に停止したかのような、奇妙な空白の時間。


やがて、ミーナはパチパチと瞬きをすると、何事もなかったかのように朗らかな笑顔を浮かべた。


「あら、そうでしたわ! 申し訳ありません、お嬢様。私としたことが、最近どうも物忘れが激しくて。真珠のネックレス、本当に素敵でしたものね。ギルバート様は本当にお嬢様を大切にされていて、羨ましい限りですわ」


「……そうね。彼はいつも優しいわ」


私は鏡の中のミーナをじっと見つめながら、作り笑いを返した。

ミーナの反応は、極めて自然だった。言い間違いを恥じる、ごく普通の侍女の態度。だが、私の胸の奥に生じた冷たい違和感は、消えるどころか確実にその質量を増していた。


ミーナが忘れるのは、これが初めてではない。

昨日頼んだはずの刺繍糸の色、先週決めたはずのお茶会のメニュー、そして、私が数日前に体調を崩して寝込んでいたという事実さえも、彼女は時折、まるで「最初から存在しなかったこと」のように忘却する。


最初は、ただの激務による疲労か、あるいは彼女個人の健忘症かと思っていた。前世の知識に照らし合わせても、若い女性が急に短期的な記憶障害を起こす疾患はいくつか存在する。

だが、おかしいのはミーナだけではなかった。


私の父であるアルノー伯爵も、領地から届いた重要な報告書の存在を、翌日にはすっかり忘れていた。

街のパン屋の主人は、昨日私が大金を払って予約した特製の焼き菓子について、今朝尋ねると「そんな予約は受けていない」と首を傾げた。預かり証を見せると、彼は幽霊でも見たかのような顔をして、「ああ、そうだ、確かに承りました」と、やはりあのミーナと同じ「数秒の空白」の後に答えたのだ。


何かが、おかしい。

この国の人々は、まるで砂のように、自らの記憶をサラサラとこぼし落としている。それも、ごく自然に。誰もその異常さに気づいていない。


気づいているのは、前世の記憶という「異物」を脳内に抱えた、私だけだった。


午後、私はアルノー伯爵家の美しい薔薇庭園で、婚約者であるギルバートを迎えていた。


ギルバート・フォン・レディウス。

この国の若き至宝と謳われる、近衛騎士団の副団長だ。夜空を切り取ったかのような艶やかな黒髪に、凍てつく冬の湖を思わせる氷冷色の瞳。彫刻のように整った容姿を持つ彼は、その冷徹な見た目とは裏腹に、私に対しては常に深い愛情と誠実さを持って接してくれた。


「レティシア、逢いたかった」


庭園の東屋で待っていた私を見つけるなり、ギルバートの引き締まった唇が柔らかな弧を描いた。彼は大股で歩み寄り、私の手を取ると、甲にそっと口づけを落とした。その仕草一つをとっても、絵画のように美しい。


「私も、ずっとお持ちしておりました、ギルバート様。お仕事はお忙しいのでしょう? 無理をなさらないでくださいね」


「君の顔を見れば、どんな疲れも吹き飛ぶよ。これ本当だ」


彼は私の向かいの席に腰掛け、差し出された紅茶に口をつけた。

私たちは、他愛のない会話を交わした。最近王都で流行している観劇の話、騎士団での訓練の様子、そして、秋に行われる予定の私たちの結婚式の準備について。


ギルバートの言葉には、私への愛が満ちていた。彼の視線、声のトーン、私の手を握る指先の温かさ。そのすべてが、彼が私を心から愛していることを証明していた。前世の記憶を持つ私から見ても、彼は完璧な、理想の恋人だった。


だからこそ、その瞬間が訪れた時の恐怖は、筆舌に尽くしがたいものがあった。


「そういえば、ギルバート様。三日前に二人でお話しした、来月の『始まりの祝祭』の日の予定ですが……」


私がそう切り出した瞬間、ギルバートの動きがピタリと止まった。

紅茶のカップをソーサーに戻そうとした、その途中の位置で、彼の腕が凝固している。


「……ギルバート様?」


私は努めて穏やかな声で、彼の名前を呼んだ。

彼の氷冷色の瞳を見る。いつもなら、私を映して優しく揺れるその瞳が、今は完全に焦点を失っていた。まるで、中身の抜けた精巧な人形が、そこに座っているかのような。深淵を覗き込んでいるかのような、不気味な静寂。


一秒。二秒。三秒。四秒。五秒。


ミーナの時よりも、長い。

私の心臓が、ドクンと大きく、そして不快な音を立てて脈打った。背筋を冷たい汗が伝い落ちる。


「……ああ、すまない、レティシア」


不意に、ギルバートの瞳に光が戻った。彼は何事もなかったかのようにカップをソーサーに置き、ふっと優しく微笑んだ。


「少し、考え事をしてしまっていたようだ。始まりの祝祭、だったね。来月のその日は、確か近衛騎士団のパレードの護衛任務が入っていたはずだが……何か約束をしていたのだったか?」


私は、息をすることさえ忘れて彼を見つめた。

三日前、彼は私にこう言ったのだ。

『始まりの祝祭の日は、奇跡的に休暇が取れたんだ。二人で、あの丘の上の教会へ行こう。君にどうしても見せたい景色がある』

そう言って、私の手を握り、子供のように目を輝かせていた。あの時の彼の喜びようは、私の記憶に鮮明に残っている。


それなのに、彼は今、パレードの任務があると言った。そして、私との約束を、影も形もなく忘れている。


「レティシア? どうしたんだい、そんなに青い顔をして」


ギルバートが心配そうに身を乗り出し、私の頬に手を伸ばした。その手は温かく、彼自身の意思で動いているように見える。


「……いえ、何でもありませんわ。少し、風が冷たいのかしら」


「そうか。無理をしてはいけないよ。部屋に戻ろうか」


彼の親切な言葉が、今の私には酷く恐ろしかった。

彼は嘘をついていない。私を傷つけようともしていない。彼は心から、私との三日前の約束を「知らない」のだ。彼の頭の中から、その記憶の断片だけが、綺麗に消去されている。


まるで、見えない何かが、彼の記憶のノートを消しゴムで擦って、都合のいい文字に書き換えたかのように。


その日の夜、私は自室の机に向かい、一冊の手帳を開いていた。

それは、この世界のいかなる文字でもない、前世の言葉――「日本語」で書かれた日記だった。


この世界の人々には、私が書くひらがなや漢字が、ただの不規則な幾何学模様にしか見えないらしい。だからこそ、これは私だけの秘密の記録であり、私の正気を保つための唯一の命綱だった。


手帳のページをめくる。そこには、ここ数ヶ月の間に私が目撃した、周囲の「記憶の異常」が克明に記されていた。


×月×日:ミーナ、私が前日に指示したドレスの色を失念。確認時、三秒の凝固あり。

×月○日:父、昨日決定した予算案の内容を『そんなものは見ていない』と主張。後に辻褄を合わせるように納得。

○月△日:ギルバート様、二週間前に二人で行った湖のデートの記憶が曖昧。私が詳細を語ると、不自然な同調を見せる。


そして、今日のページに、私は震える手で新たな事実を書き加えた。


六月二十三日:ギルバート様、三日前の『始まりの祝祭』の約束を完全に忘却。忘却の際、約五秒間の完全な意識停止(凝固)を観測。彼の記憶の中では、最初からその日は『騎士団の任務』になっている。


ペンを置き、私は深く息を吐き出した。冷え切った指先を合わせる。


狂っているのは、私なのだろうか。

前世の記憶などという妄想に取り憑かれ、周囲の人々が少し物忘れをしただけで、世界が狂っていると疑っている私こそが、本当の精神病を患っているのではないか。


何度も、そう思おうとした。その方が、どれだけ救われただろう。

だが、あの「数秒間の凝固」はどう説明すればいい?

人が何かを忘れる時、あんな風に、まるで世界そのものが一時停止したかのように、完全に動きを止めるものだろうか。あの時の彼らの瞳は、生きている人間のそれではない。何らかの「システム」によって、強制的にデータを書き換えられている最中の、ただの器だ。


「……データ?」


私は、自分の口から出た前世の単語に、ハッとした。

この違和感。この、どこか「不自然な世界」の感覚。


前世の記憶の中にある、あるジャンルの物語。

『乙女ゲーム』、あるいは……。

もし、この世界がそのような「作られた物語」の舞台なのだとしたら。そして、登場人物たちの行動や記憶が、あらかじめ決められた「シナリオ」に沿って動かされているのだとしたら。


シナリオから外れた会話、外れた約束は、世界システムによって修正される。

ギルバートが私と交わした「始まりの祝祭の日のデート」という約束は、本来のシナリオにはない、イレギュラーなものだった。だから、世界は彼の記憶を『パレードの護衛任務』という、本来あるべきシナリオ通りに書き換えた。


書き換える際、彼の意識は一時的に停止する。それが、あの「凝固」の正体――。


「そんなことが……」


私は自分の両腕を抱きしめた。鳥肌が止まらない。

もしこの仮説が正しいなら、なぜ私だけが修正を受けないのか。なぜ私だけが、書き換えられる前の記憶を保持していられるのか。


理由は一つしか思い当たらない。

私には、この世界の住人にはない「前世の記憶」があるからだ。

外の世界の魂が混ざり込んだことで、私はこの世界の「修正機能」の対象外になってしまったのではないか。


だとすれば――。

私は、この世界の真実に気づいてしまった、唯一の「バグ」ということになる。


恐ろしかった。

もし、この世界の管理者、あるいは世界そのものに、私が「バグ」であると気づかれたら、どうなるのだろう。私もまた、跡形もなく消去されるのだろうか。

それとも、ギルバートのように、自我を奪われてただの書き換え可能な人形にされてしまうのだろうか。


「ギルバート様……」


彼を想うと、胸が締め付けられるように痛んだ。

私を愛してくれる、あの優しい微笑み。あの温かい手。

彼が私に向ける愛情は、本物のはずだ。少なくとも、私にはそう感じられる。だが、その愛情さえも、もし「シナリオ」によって強制されているものだとしたら?

あるいは、彼が私を深く愛すれば愛するほど、シナリオとの矛盾が生じ、彼の記憶は何度も何度も、残酷に書き換えられていくのではないか。


今日、彼は五秒間止まった。

次は十秒かもしれない。その次は一分かもしれない。

そしていつか、彼の脳が書き換えの負荷に耐えきれなくなった時、あるいは、シナリオが彼に「私を忘れること」を要求した時――。


彼は、私の存在そのものを、あのガラス玉のような瞳で忘却するのだろうか。


「嫌……そんなの、絶対に嫌」


暗闇が迫る自室の中で、私は手帳を強く握りしめた。

これは、ただの奇妙な病気などではない。

もっと根深く、もっと悪質で、逃れることのできない――世界そのものが仕掛けた、残酷な『呪い』だ。


私は、ギルバートを失いたくない。

彼の人形のような瞳を、二度と見たくない。

そのためには、この世界の仕組みを、この不可解な呪いの正体を突き止めなければならない。私の中に眠る、前世の記憶という唯一の武器を使って。


窓の外を見上げると、美しい満月が、いつもと変わらぬ冷ややかな光で世界を照らしていた。

その光さえも、どこか作り物めいて見えて、私はそっとカーテンを閉めた。

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