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【連載完結】婚約者の溺愛が本物だと信じたいけれど…  作者: 逆立ちハムスター


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3/3

境界線の神判

「……ええ。少し、学園に入学する前に、王都の歴史や地理をおさらいしておこうと思いまして」


私は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に制御し、おっとりとした声音を意識して答えた。背中には、嫌な汗がじっとりと伝っていく。

ギルバートは私の言葉を聞くと、しばらくの間、何も言わずに私を見つめていた。その氷冷色の瞳は、まるで私の嘘をすべて見通しているかのように深く、そして冷たかった。彼の視線が、私が体で隠している王都の地図、そしてその下に滑り込ませた日本語の手帳の端へと注がれる。


張り詰めた沈黙。室内の空気の重さに、息が詰まりそうになった。

もし、ここで彼が「凝固」を起こしたら。あるいは、私の不審な行動を「システム」が検知して、彼を操り、私を排除しようとしたら――。


しかし、次の瞬間、ギルバートの唇がふわりと緩んだ。


「そうか。熱心なのは良いことだが、あまり根を詰めないようにね。レティシアは昔から、一つのことに集中すると周りが見えなくなる癖があるから」


彼はそう言って、いつものように私の頭を優しく撫でた。その手の温もりは、紛れもなく私が愛したギルバートのものだった。だが、その優しい眼差しの奥に、どこか機械的な「役割」の残滓を感じてしまうのは、私自身の心が歪んでしまったからだろうか。


「ありがとうございます、ギルバート様。お気遣い、嬉しく思いますわ」


「ああ。では、私はこれで失礼するよ。伯爵閣下にも挨拶をしていかなければならないから。また近いうちに、お茶でも飲もう」


彼は洗練された所作で一礼すると、静かに部屋を出て行った。

パタン、と扉が閉まる音が響いた瞬間、私は大きく溜め息を吐き、その場にへたり込みそうになった。心臓が早鐘のように打っている。


ギルバートが去った部屋で、私はすぐに隠していた書類と地図を机いっぱいに広げた。

先ほどインクで印をつけた、人々が本能的に避けている三つの不自然な場所。

東の森の境界。

西の渓谷の神殿跡。

北西の古い湖。


私は定規を取り出し、その三つの点を直線で結んだ。地図の上に、綺麗な正三角形が描き出される。

そして、その三角形のちょうど中心――重心の位置に、何が存在しているのかを確かめるために、私は目を凝らした。


「……あっ」


声が漏れた。

そこには、小さな建物のマークが記されていた。

王都の郊外、なだらかな丘の頂上にひっそりと佇む、古い礼拝堂。


――『始まりの祝祭の日は、奇跡的に休暇が取れたんだ。二人で、あの丘の上の教会へ行こう。君にどうしても見せたい景色がある』


ギルバートが私に告げ、そして世界システムによってその記憶を根こそぎ消去された、あの約束の場所。

点と点が、私の脳内で一本の線へと繋がっていく。

なぜ、ギルバートは本来のシナリオにない「丘の上の教会」へ私を連れて行こうとしたのか。なぜ、世界はそれを拒絶し、彼の記憶を書き換えたのか。


「あそこに、何かがあるのかも」


この歪んだ世界を縛る『呪い』の正体。すべての人々の記憶を都合よく改ざんし、私たちを決められたお人形劇の登場人物に仕立て上げている、その元凶が、あの場所に眠っているに違いない。

行くしかない、と私は決意した。誰にも見つからず、世界の修正機能が働かない、真夜中に。


時計の針が深夜の二時を指した頃、私は行動を開始した。


華美なドレスを脱ぎ捨て、クローゼットの奥に隠していた、乗馬用の黒い乗馬服とマントに身を包む。葡萄色の長い髪は一つに束ねてマントの中に隠した。

前世の記憶にある、夜間の隠密行動に関する知識を総動員する。足音を立てない歩き方、見張りの視線を避けるタイミング。幸いにも、この時間帯のアルノー伯爵邸は静まり返っており、廊下を巡回する警備の兵たちも、まるであらかじめ決められたルートを機械的に歩くだけの置物のようだった。彼らの単調な動きの隙を突くのは、驚くほど簡単だった。


裏口から庭園へ抜け、あらかじめ厩舎の隅に用意しておいた、大人しい気性の愛馬の元へと向かう。蹄に布を巻き、音を最小限に抑えながら、私は伯爵邸の敷地を脱出した。


夜の王都は、いつもに増して不気味なほどに静まり返っていた。

月明かりだけが、誰もいない石畳の道を白々と照らしている。昼間の賑わいが嘘のように、街全体が「活動を停止した機械」のように。


私は馬を走らせ、王都の城門を抜け、北西へと続く街道を進んだ。

目指すは、あの中央の丘。


街道を外れ、なだらかな丘へと続く細い山道に入ったとき、最初の「異変」が私を襲った。


「……え?」


私は馬のたづなをを引き、不意に周囲を見回した。

何かが、おかしい。

さっきまで耳を打っていた、パカパカという馬の蹄の音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。いや、それだけではない。夜の森を騒がせているはずの虫の声、木々を揺らす風の音、草むらを駆け抜ける小動物の気配――そのすべてが、完全に消失していたのだ。


私は馬から降り、地面に足をつけた。

サリ、という草を踏みしめる音さえも、私の耳には届かない。自分の口から漏れる吐息の音も、衣擦れの音も、ドクドクと高鳴る心臓の鼓動さえも、世界から完全に消去されていた。


「音が……消えた?」


恐怖が、冷たい指先で私の背中をなぞるように駆け上がった。

さらに不気味なのは、音だけではなかった。

夜の森が持つ、土の匂い、草の青臭さ、湿った空気の気配――それらの「匂い」が、まるで最初からこの世に存在しなかったかのように、鼻腔から一切消え失せていたのだ。


無音、かつ無臭の世界。

それは、五感が麻痺したというよりも、この空間そのものに「音」と「匂い」という概念が最初からないかのような、圧倒的な虚無だった。

一歩進むごとに、自分が人間ではなく、何もない白い空間に放り出された迷子のような錯覚に陥る。

それでも、私は歩みを止めなかった。前世の私が持っていた「理性」が、これが世界のバグ、システムの境界線特有の現象だと告げていたからだ。ここで引き返せば、私は一生、あの偽りの砂の城の中で、人形として生きることになる。それだけは、死んでも嫌だった。


暗闇の中、音のない自分の足を進め、私はついに丘の頂上へと辿り着いた。


そこには、古びた石造りの教会が佇んでいた。

長年の風雨に晒され、壁のあちこちがひび割れ、蔦が絡みついている。外見は、この世界にどこにでもある寂れた礼拝堂だ。だが、その周囲には、月光さえも不自然に歪んで差し込んでいるような、奇妙な違和感が漂っていた。


私は教会の重い木製の扉に手をかけ、押し開けた。

本来ならギィィ、と不快な音を立てるはずの扉は、やはり一切の音を立てずに滑らかに開いた。


教会の内部は、ガランとしていた。

並べられた礼拝用の長椅子はどれも埃を被り、祭壇の上には古びた十字架が寂しく佇んでいる。窓のステンドグラスから差し込む月光が、床に色鮮やかな影を落としていたが、その光の粒子さえもが静止しているように見えた。


音も、匂いもない、完全なる静寂の空間。


私は息を殺し、祭壇の方へとゆっくりと歩みを進めた。

この教会のどこかに、世界の真実があるはずだ。


祭壇の後ろへと回り込んだとき、私はその「異常」を目撃した。


古びてひび割れた教会の壁の中で、そこだけが、周囲とは明らかに異なる異質な輝きを放っていた。

幅二メートル、高さ三メートルほどの、一枚の「壁」。

それは、一切の傷も、汚れも、凹凸もない、完璧なまでに滑らかな平面だった。まるで、この世のものではないような背景をそのまま現実にはめ込んだ不自然な壁。


その綺麗な壁だけが、周囲の寂れた教会の風景から完全に浮き上がっていた。


「これは一体…………?」


私は吸い寄せられるように、その壁の前に立った。

心臓が破裂しそうなほどに激しく脈打っている。本能が「触れてはならない」と激しく警鐘を鳴らしていた。だが、ここまで来て引き返す選択肢など、私にはない。


私は震える右手を伸ばし、その完璧な平面へと、そっと指先を触れさせた。


――パキン。


私の頭の中に直接、ガラスが激しく粉砕されるような、鋭い音が響き渡った。


次の瞬間、目の前の綺麗な壁が、まるで鏡が割れるように、粉々に砕け散って弾け飛んだ。

壁の破片が光の粒子となって消え去ったその向こう側、暗黒の空間が口を開けていた。


そして、そこに存在していたものを目にした瞬間、私は悲鳴をあげようとして、声にならずに喉を詰まらせた。


「ひっ……!」


暗闇の中に敷き詰められていたのは、無数の、おびただしい数の目玉だった。


巨大な目、血走った目、濁った目、澄んだ目――ありとあらゆる形状の目玉が、その暗黒の壁一面にびっしりと埋め尽くされ、それらが一斉に、ギョロギョロと不規則に、狂気的な速度で動き回っていた。

そして、その無数の目玉が一斉に動きを止め、その瞳孔を、一転して私一人へと集中させた。


見られている。

世界そのものに、システムの根幹に、私が「バグ」であることを認知されたのだ。

生理的な嫌悪感と、脳が焼き切れるほどの恐怖が私を襲った。全身の血の気が引き、指一本動かすことができない。目玉たちはギョロギョロと蠢きながら、まるで私を飲み込もうとするかのように、じわじわとこちらへせり出してくる。


その時だった。


教会の天井が、凄まじい轟音――いや、音を超えた衝撃波と共に、粉々に吹き飛んだ。


上空から、視界を完全に遮るほどの、圧倒的な黄金の光が降り注ぐ。

その光の中心から、血塗られた一体の存在が降臨した。


それは、神々しいまでの美しさを持った「天使」だった。

背中には、純白の巨大な翼が幾重にも重なり合い、頭上と背には複数の眩い光輪が浮かんでいる。だが、浮かび上がっている表情は、神聖な慈悲など微塵もなく、ただすべてを滅ぼさんばかりの、凄まじい「憤怒」の表情に歪んでいた。


天使は、その黄金の瞳を怒りに燃え上がらせ、右腕を高く掲げた。

その手には、落雷をそのまま形にしたかのような、激しく明滅する純白の「光の槍」が握られていた。


天使は、私には一瞥もくれず、ただその激しい怒りの視線を、壁の向こうの「無数の目玉」へと向けた。

そして、恐ろしいほどの力で、手にした光の槍を、目玉の塊目掛けて力任せに投擲した。


「――っ!!」


光の槍が放たれた瞬間、世界が、空間そのものが激しく震動した。

槍は無数の目玉の中心へと突き刺さり、そこから太陽が爆発したかのような、凄まじい純白の光が放射状に広がっていく。

目玉たちが断末魔の叫びをあげるかのように、ギョロギョロと狂ったように身悶えし、光の中に消滅していくのが見えた。


爆風と、すべてを焼き尽くす圧倒的な光の濁流が、私をも飲み込んでいく。

私の視界は完全に真っ白に染まり、強烈な衝撃の中で、私の意識は深い闇の底へと突き落とされた。


…………


…………


…………


「……様。……お嬢様?」


聞き覚えのある声が、遠くから聞こえてきた。

私は、重い、本当に鉛のようにつぶったまぶたを、ゆっくりと押し上げた。


視界に飛び込んできたのは、見慣れた色の天蓋だった。

体を起こすと、柔らかなシルクのシーツが擦れる音が、はっきりと耳に届く。窓の外からは、小鳥たちのさえずりや、庭園の木々が風に揺れる音が、心地よく響いていた。鼻をくすぐるのは、淹れたての紅茶の芳醇な香りと、朝の澄んだ空気の匂いだ。


感覚が戻っている。


私は慌てて、ベッドの横にある大きな姿見へと視線を走らせた。

鏡の向こうにいるのは、深い葡萄色の髪を持った少女。レティシア・アルノー。伯爵令嬢としての、いつもの私の姿だった。


「お嬢様、ようやくお目覚めになりましたね。本日の髪飾りはどちらになさいますか? 先日、ギルバート様から贈られた、あの美しいサファイアのものがよろしいかと」


背後から声をかけてきたのは、いつものようにブラシを手にした侍女のミーナだった。彼女は私の髪を丁寧に梳かしながら、鏡越しに親しみやすい笑顔を浮かべている。


私は、息をのんだ。

このセリフ。このシチュエーション。

全く同じだった。


(私は……ループしたの? あの光に飲まれて、また最初から……?)


背中に冷たい戦慄が走る。私は手元に置いた木製の小箱に視線を落とした。そこには、透き通るような青い輝きを放つサファイアの髪飾りがある。

私は、あの時と同じように、彼女の記憶を確かめるために言葉を発した。


「ええ、それに狂いはないわ、ミーナ。でも、ギルバート様からいただいたのは、先月ではなく『三ヶ月前』の、私たちの婚約記念日よ。先月の私の誕生日にいただいたのは、あちらの真珠のネックレスでしょう?」


私が部屋の隅にあるジュエリーボックスを指さす。

以前のミーナはここで数秒間、完全に思考を停止させ、ガラス玉のような瞳で「凝固」した。


私は、身を硬くして彼女の反応を待った。


しかし――。


「あら! 本当ですわ、お嬢様! 私としたことが、とんだ勘違いをしてしまいました。そうでしたわ、サファイアは婚約記念日の大切な贈り物でしたのに。大変失礼いたしました!」


ミーナは、すぐに顔を赤らめてペコリと頭を下げた。

そこには、あの不気味な「数秒の空白」など、一瞬たりとも存在しなかった。彼女の瞳は生き生きと輝き、恥ずかしそうに、だが極めて自然に、自分の言い間違いを正したのだ。


「……ミーナ?」


「はい、お嬢様。すぐに真珠のネックレスをお持ちいたしますね」


彼女は軽やかな足取りでジュエリーボックスへと向かい、ネックレスを取り出してきた。その一連の動作に、何の不自然さもない。


私は呆然としながら、自分の手をじっと見つめた。

その後、午後に行われたお茶会でも、街へ出た際に出会った人々との会話でも、あの恐ろしい「記憶障害」のような現象は、一度として起きなかった。

アメリアも、ベアトリスも、私が少し意地悪な質問を投げかけても、凝固することなく「それはね……」と楽しげに続きを話してくれた。

商人たちも、かつて避けていた「特定の場所」について尋ねると、「ああ、あそこですか? 最近、道が整備されて通りやすくなりましたよ」と、普通に答えた。


人々は皆、完全に「正常」に戻っていた。

世界を縛っていた、あの都合のいい記憶の改ざんも、不自然な人形芝居のような違和感も、すべてが綺麗に消え去っていたのだ。

まるであの天使の放った光の槍が、世界を監視していた無数の「目玉」――呪いのシステムそのものを、根こそぎ破壊してくれたかのように。


私は、救われたのだろうか。

世界は、ただの真っ当な現実になったのだろうか。


「レティシア」


夕方、薔薇庭園の東屋で私を待っていたギルバートが、私を見つけるなり愛おしげに名前を呼んだ。彼は大股で歩み寄り、私の手をしっかりと握りしめた。


「ギルバート様……」


「逢いたかった。……なんだか、君の顔をこうして見るのが、ずいぶんと久しぶりのような気がするな」


彼はそう言って、少し照れたように微笑んだ。その氷冷色の瞳には、私の姿が、かつてないほどに深く、鮮明に映し出されていた。そこにはもう、役割に縛られた人形の陰影など、どこにもなかった。


彼は、自分の意志で、心から私を愛してくれている。

世界が正常になった今、私たちの絆は、本物のものになったのだ。


しかし、私の胸の奥に灯った小さな「不穏の火」は、消えることはなかった。


なぜ、私だけが、書き換えられる前の記憶を、あの教会の出来事を覚えているのか。

そして――あの時、無数の目玉を怒り狂って破壊した、あの神々しくも恐ろしい「天使」の正体は、一体何だったのか。


呪いが解けた世界の中で、私はギルバートの手の温もりを感じながら、目に見えない世界の天上が、ほんの少しだけ、かつてより低くなっているような、奇妙な予感に囚われていた。

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