10話 アンナの忠誠
初夏の陽光が差し込む庭園には、白いテントと色とりどりの花が並び、貴族令嬢たちの笑い声が涼やかに響いていた。
――今日は、ドロワーズ子爵家が主催するお茶会。
主催者である カトレア・ドロワーズ は、王都でも名の知れた“華やかさ”と“気位の高さ”を兼ね備えた子爵令嬢だ。
彼女の招待状は、若い令嬢たちにとって一種のステータスでもある。
だが、アンナ・ミラージュにとっては―― 招待状を受け取った瞬間から、胃の奥が重くなるだけの行事だった。
男爵家の娘である自分を、カトレアはいつも何かと見下し、笑顔の裏に棘を忍ばせてくる。
今日もまた、何か言われるのではないか。 そんな予感が、会場に足を踏み入れた瞬間から離れなかった。
それでもアンナは、亡き母の形見である淡い青のドレスを身にまとい、胸を張って参加した。
――母が最後に仕立ててくれた、大切な一着。 流行遅れでも、古くても、アンナにとっては宝物だった。
だが、その想いはあっさりと踏みにじられる。
「あらぁ……皆さん、ちょっと見てくださる?」
わざとらしく声を張り上げ、カトレア・ドロワーズ子爵令嬢が周囲の視線をこちらへ誘導する。
今日は彼女主催のお茶会。
だが アンナ・ミラージュにとっては、来た瞬間から帰りたい気持ちでいっぱいだった。
理由はただひとつ――
カトレアが何かにつけて男爵令嬢のアンナを見下し、馬鹿にしてくるからだ。
そして今回の標的は、アンナが大切に着てきた“亡き母の形見のドレス”。
カトレアは、わざとらしくため息をつきながらアンナを上から下まで眺める。
「この子のドレス……まぁ、なんて“古風”なのかしら」
口元に手を当て、わざと聞こえるようにクスクスと笑う。
「今の王都では、私のようなシルエットが流行っているのよ?」
腰をひねり、自分のドレスをこれ見よがしに広げてみせる。
「ねぇ皆さん、見て? この袖の形、もう何年前の流行かしら。 あら、ごめんなさいね。男爵家では最新の仕立て屋に頼むのは難しいのよね?」
「でも……“思い出の品”かしら? あら、それなら余計に……」
同情を装った声色で、しかし目は冷たく笑っている。
「――誰も強く言えないわよねぇ。 だって“形見”なんですもの。ねぇ、皆さん?」
「まぁ……確かに古風ねぇ」
「ええ、なんだか懐かしいわ。子供の頃に見たような……」
「でも、仕方ないわよね。男爵家だもの」
周囲の淑女たちが、“嘲笑”の笑みを浮かべる。
その場の空気は、上品な香水の匂いに混じって、ねっとりとした悪意が漂っていた。
アンナは、母を愛していた。 そして亡くなる前、母が微笑みながら言った言葉を何よりも大切にしていた。
――「いつかあなたがこのドレスを着ているところを見るのを、楽しみにしているわ」
その言葉だけが、アンナの胸の奥でずっと灯り続けていた。
だからこそ―― カトレアの嘲笑が耳に刺さった瞬間、胸の奥で何かが“ぷつん”と切れた。
「……っ!」
普段は無口で、争いを避けるアンナの手が、気づけばカトレア・ドロワーズ子爵令嬢の頬をひっぱたいていた。
「きゃっ!? な、何をするのよ、この子爵家に手を上げるなんて――!」
周囲の淑女たちが一斉に悲鳴を上げる。 だがアンナの耳には、何も届かなかった。
その日のうちに、ドロワーズ子爵は怒り狂ってミラージュ男爵家へ乗り込んできた。
その後ろには、なぜか ベリッサ伯爵令嬢 までついてきていた。
「男爵。あなたの娘が我が娘に暴力を振るった。 謝罪と――相応の金銭を要求する」
アンナは震える声で言い返す。
「……わ、私は……悪くありません。 母の形見を……あんなふうに言われて……!」
しかし子爵は鼻で笑った。
「言い訳など聞いていない。 謝罪しないのなら――ミラージュ家を潰すまでだ」
その言葉に、アンナの父・ミラージュ男爵は青ざめた。
「アンナ……頼む。家が……皆が困る。 どうか……謝ってくれないか」
アンナは唇を噛みしめる。
(どうして……どうして私が謝らなきゃいけないの…… 悪いのは、あの人たちなのに…… 母のドレスを……あんなふうに……)
それでも、父の震える声が胸に刺さる。
「……お父様を……守らなきゃ……」
アンナは、涙をこらえながら頭を下げた。
「……申し訳……あり……」
しかし、アンナが言い終わる前に、ベリッサ伯爵令嬢 が静かに制した。
二人――カトレアとドロワーズ子爵が興奮している横で、ベリッサだけがまるで別世界のように冷静だった。
「カトレア嬢……」
カトレアは勝ち誇ったように笑みを深める。
「ベリッサ様も、アンナ嬢の反抗的な態度は許せませんよね? やはり身分をわきまえない者は――」
だが、ベリッサの口から出たのは予想外の言葉だった。
「先日の茶会で、アンナ嬢のドレスを“けなした”というのは本当ですの?」
カトレアは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに鼻で笑った。
「嫌ですわ、けなしたのではなくて、流行を教えて差し上げたのです。 あまりにみすぼらしいドレスだったのですもの」
その言葉に、アンナの胸が再び熱くなる。
「……母の形見のドレスを……汚すな!!」
普段は無口なアンナの叫びに、場が凍りつく。
自分より身分の高い貴族に敬語を使わなかったことで、カトレアとドロワーズ子爵は怒りを爆発させた。
「無礼者!!」
「男爵家の娘が子爵家に向かってその口の利き方は何だ!!」
怒号が屋敷に響き渡る。 ドロワーズ子爵は顔を真っ赤にし、今にも血管が切れそうな勢いで怒鳴り散らした。
そして、勢いそのままに ベリッサ伯爵令嬢 へ向き直る。
「ベリッサ様! 伯爵家の権威で、今すぐミラージュ家を取り潰してください!! このような無礼、到底許されるものではない!!」
アンナの父・ミラージュ男爵も、蒼白になって娘に叫ぶ。
「アンナ! すぐ謝れ! 今すぐだ! これ以上は……本当に家が……!」
カトレアとドロワーズ子爵は、“勝利を確信した者の笑み”を浮かべていた。
「もう遅いわ。謝っても許さない」
「身の程知らずには相応の罰が必要だ」
その中で、ベリッサが静かにアンナへ声をかけた。
「アンナ嬢」
カトレアとドロワーズ子爵は、“ついに伯爵家が裁きを下す”と確信し、ニヤリと笑う。
だが――ベリッサの口から出たのは、彼らが想像もしなかった言葉だった。
「いいこと、アンナ。 謝罪の言葉なんて、いくらでも吐いて構わないわ。 でも――」
扇子で口元を隠しながら、ベリッサはアンナの瞳をまっすぐ見つめた。
「納得していないなら、心の中では一ミリたりとも頭を下げてはダメよ。 誇りは、誰にも踏ませてはいけないわ」
アンナの胸に、熱いものが込み上げる。
「……はい」
そしてアンナは、カトレアとドロワーズ子爵に向き直り、静かに頭を下げた。
「……申し訳……ありませんでした……」
その横顔を見たベリッサには、アンナが舌をペロッと出しているのがしっかり見えた。
(そう、それでいいわ。 “形だけ”頭を下げれば十分)
ベリッサはドロワーズ子爵に向き直り、微笑む。
「今回の件、アンナ嬢を許してくださるなら―― ノクティア伯爵家は、ドロワーズ子爵家に感謝するでしょう」
その言葉に、ドロワーズ子爵は顔色を変えた。
「そ、それは……もちろん! ノクティア伯爵家がそこまで言うなら…… 今回のことは水に流しましょう!」
しかしカトレア令嬢は納得がいかず、父に食い下がる。
「お父様! どうしてですの!? あの子が――!」
しかしドロワーズ子爵は娘を押しとどめた。
「黙りなさい、カトレア! 伯爵家に貸しを作れるのだぞ!」
カトレアは唇を噛みしめ、悔しさに震えた。
ベリッサが皆に見送られながら馬車に乗り込む直前、周囲に聞こえないよう、そっとアンナの耳元へ顔を寄せた。
「今、属性ギフトの家門は軒並み“魔力の高さ”で厚遇されているわ。……なぜだか分かる?」
アンナは一瞬だけ考え、静かに答える。
「四神の主が、魔力の高さで選ばれるから……でしょうか」
「そう。だからアンナ、あなたは“鳳凰”の主になりなさい」
ベリッサの声は穏やかだが、芯があった。
「私も“炎帝”の主を目指すわ。そうすれば、誰かに従いたくないことを強いられても……従わずに済む」
アンナは胸に手を当て、まっすぐに頷いた。
「はい、ベリッサ様。私……“鳳凰”の主になります」
ベリッサは満足げに微笑み、何事もなかったように振り返って歩き出した。 アンナだけが、その言葉の重さをしっかりと胸に刻んでいた。
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