17、彼の家
面談室を出た後、あれよあれよという間に、京人に小洒落たベージュのキーケースを手渡され、断る間もなく1人でタクシーに乗せられた結は、まるで高級ホテルのようなタワーマンションのエントランスに辿り着いた。
(運転手さんに行き先も訊かれずに着いちゃったけど……ここでいいのかな?)
結はつい先程の京人との別れ際でのやりとりを思い返した。
『エントランスに着いたら、中に入ってて。真っ直ぐ行くとエレベーターがあるから、一番手前のエレベーターに乗って、着いたところで待ってて。』
『えっ、ちょっと……』
『ごめん、タクシー来ちゃった。僕もすぐに追いかけるから。急いで!』
『えぇ……?』
困惑しつつも、根が真面目な結は、既にタクシーを呼んでしまった以上、運転手さんを待たせる訳にはいかない、と急いでオフィスにある自分の鞄を取りに行った。
オフィスを出る時、面談室から顔を出した営業所長が「お疲れ様。」と声を掛けてきたが、他には何も言われなかったため、京人の言う通り彼女の「許可は取ってある」ようだった。
そうして慌ててタクシーに乗り込むと、わずか数分でこの場所に辿り着いた。
(私の職場から近かったな……余裕で歩ける位の距離だったし。)
結は京人に渡されたキーケースを無くさないようにしっかりと右手に持ち、エントランスの自動ドアをくぐり抜けた。
自動ドアを通る時に、ピッと控え目な電子音が鳴った。
(もしかして、このキーケースにハンズフリーキーが入ってるのかな……?)
どうやらこの自動ドアから先は、住人しか入れない場所らしい。
自動ドアの先はホテルのフロントのように広く、ガラス張りの窓の外には綺麗に切り揃えられた美しい木々が並んでいた。
今が冬でなければ、きっと綺麗な花々も咲き誇っていたことだろう。
廊下を進むと、外の美しい景色を眺めるかのようにソファとローテーブルがいくつか配置されていた。
住人でもないのにマンション内に入っていることに若干後ろめたさを感じつつ、結は京人に言われた通り、エレベーターホールに向かった。
程なくしてエレベーターホールに辿り着くと、金色に塗装された豪華なエレベーターが3台並んでいた。
(確か、一番手前のエレベーターって言ってたよね。)
結は京人に言われたことを反芻しながら、一番手前のエレベーターに乗り込んだ。すると、通常のエレベーターと様子が違うことに気が付いた。
(……あれ? 行く先の階を押すボタンがない!)
どこを探してもボタンが見当たらず、結は焦ったが、「ピッ」という電子音とともにドアが閉まると、急にエレベーターが動き出した。
(何これ……!? どこに着くの? 大丈夫なの?!)
焦る結を他所に、エレベーターはすぐに目的の階に着いたようで、ドアが開いた。
結が恐る恐るエレベーターを降りると、そこは廊下のような小部屋だった。
右手と左手それぞれに大きなドアがあり、目の前には大きな全身鏡とその横にはカフェにありそうな木製の椅子が置いてあった。
結の後ろでは、今降りたばかりのエレベーターのドアが閉まり、しんと静まり返った。
物音一つしない小部屋に一人取り残された結は、途端に不安に襲われた。
(本当に、ここであってるのかな……?)
心細さを感じた結は、京人と初めて話した雪の日を思い出していた。
(あの時も一人で怖かったな。……あれからもう二十年以上経つのか。懐かしいな。)
自分だけあの頃から何も変わっていないような気がするが、変わったこともある。
(もしここが京人君の家なら、中に入るのはまずい気がする。)
もう十年以上も前のことだが、京人から実家を出て一人暮らしを始めると連絡があったため、恐らく京人は今も一人暮らしをしているはずだ。
まだ無邪気な子供の頃だったら、それでも結は喜んで京人の家に上がっただろうが、大人になった今、男性の家に入ることがどんな意味を持つかは理解している。
さらに、京人は一般人ではない。ここまで来ておいて今更だが、京人のことを考えればこそ、家に上がるべきではないように思えた。
(キーケースを返したら、帰ろう。)
結がそう決意した時、結が先程乗ってきたエレベーターのドアが開いた。
「ごめんね!お待たせ。」
京人が慌てたようにエレベーターを出て、結の目の前に降り立った。
「全然、大丈夫。むしろ早くてビックリしたくらい。」
結がそう伝えると、京人は安堵したようだった。
「そっか、よかった。ここは今僕が住んでいる家なんだけど……大丈夫? 迷子にならなかった?」
どうやら京人の中では、結はまだ子供の頃のイメージが抜けきれていないらしい。
「教えて貰った通りに来られたから、大丈夫だよ。」
「そっか、良かった。本当は二人で歩いて来たかったんだけど、一緒に来れなくてごめんね。」
「それは大丈夫! 一緒に街中を歩くほうが心配になっちゃうよ。」
もう外が暗くなってきているとはいえ、それでも結の職場からここまでの道はそれなりに人通りがあった。
もし京人が道中で誰かに見つかるようなことがあったら、とんでもなく大変なことになっていたことだろう。
「はは、そうかも。」
京人はまるで他人事のように、楽しそうに笑った。結もつられて笑ってしまったが、まだ京人のキーケースを返していないことを思い出して、慌ててキーケースを差し出した。
「あの……これ、お返しするね。」
「あぁ、忘れてた。ありがとう。」
京人はキーケースを受け取ると、左側のドアに向かった。
「このマンションの鍵は、その人が住んでいる階にしか行けないようになってるんだ。セキュリティがすごいよね。」
「だからエレベーターに行き先階のボタンが無かったんだね。最初、ボタンが無くて焦ったよ。」
「はは、そうだよね。説明不足でごめんね。」
京人は申し訳なさそうに笑った。
「反対側にもドアがあるでしょ? そのドアを開けると、もう一つ来客用のエレベーターがあって、そっちはちゃんと行き先階を押すボタンがあるんだ。葵が家に遊びに来る時とかは、そっちのエレベーターを使って貰ってるんだ。」
京人が言う「葵」とは、恐らくPlantsメンバーの葵のことだろう。京人がメンバーと普段から仲良くしていることが分かり、結は嬉しくなった。
「そうなんだ、便利だね。」
「うん。それでこっちのドアが僕の家なんだけど……」
ドアに向かっていた京人は急に立ち止まると、くるりと結のほうを向いた。
「その前に、結ちゃんに確認だけど、今お付き合いしてる人いる?」
「いないよ!」
答えてすぐに、結は自分の失態に気が付いた。
(まずい、つい正直に答えちゃった……)
突然の質問に驚いて、結はつい正直に回答してしまった。恋人がいるのに、他の男性の家を気軽に訪れるような軽い女だと思われたくないという矜持もあったかもしれない。
いつもの結ならば、仕事で相談者に恋人の有無を聞かれても、話題を変えて誤魔化すようにしていた。
それは、結婚相談所の職員と相談者という立場でお互いに深入りしすぎるのを避けるためだったが、京人といるとどうしても子供の頃の感覚が抜けず、つい本音で話してしまった。
そんな結の焦りには気が付かず、京人はガッツポーズでもしそうな勢いで喜んだ。
「ほんとに!? よかったー!」
恋人がいないことを京人に喜ばれて、結は心中複雑だった。
(喜んでくれたのは嬉しいけど、結婚相談所の職員なのに独身で恋人もいないのって、説得力に欠けるような……)
「一応、結ちゃんのお母さんには、結ちゃんは今恋人がいないって聞いてたけど、お母さんに伝えてないだけって可能性もあるし、ちょっと心配だったんだ。……まあ、告白しておいて今更なんだけど。」
母から何も聞いていなかった結は、母が京人と未だに連絡を取っていることにも驚いたが、さっき営業所で好きだと言われたのが本当に「告白」だったと分かり、それにも驚いた。
(さっきのってやっぱり告白だったの? もしかしたら「人として好き」とか、そういう別の意味なんじゃないかと思ったけど。……今はこれについては聞かないほうがいい気がする。)
「まだ、お母さんと連絡取ってたの?」
「もちろん。今でも毎年年始には近況報告も兼ねて必ず連絡させてもらってるよ。僕、外堀から埋めてくタイプだから。」
「え? 外堀?」
結は一瞬物騒なことを言われたような気がしたが、京人に話題を変えられて、その事はすぐに忘れてしまった。
「そうだ、結ちゃん。家に入る前に1個だけ約束ね。僕は家で結ちゃんの嫌がるようなことはしないから安心してね。」
「うん、分かった。」
(しまった! 帰るつもりが、いつの間にか家に入る流れになってる……!)
昔からの癖で、年上の京人に言い聞かせるように何かを指示されると、結は自動的に「うん、分かった。」と回答するようになっていた。
「それに安心して。僕、童貞だから。」
(童貞、関係ある?!)
「そ、そっかー……?」
さすがにここで「うん、分かった。」と相槌を打つのは違うような気がして、結は曖昧な返事しかできなかった。
(どうして、こんなに童貞を強調してくるんだろう? というか、どうしよう……幼馴染とはいえ、付き合ってもいない男性の家に入るのは良くないと思う。でも、京人君の家は見てみたい。)
結が迷っている間に、一瞬で京人は家のドアを開けて結を手招いた。
「ここの鍵もハンズフリーなんだよ。便利でしょ?」
(便利すぎて迷う余裕も無かった! もうちょっと心の準備させてよ……)
心の底から嬉しそうに、にこにこと結を手招く京人を見て、どうしても断ることができず、結局、結は京人の家に上がることにした。
「……お邪魔します。」




