最後の見参
「宋史」日本国「乾道九年(1173)、日本国としてははじめて明州の運搬業の親方に日本の物産をことずけて入貢させた。」留学僧は商人の船で大陸に向かっていたが、国家としての入貢を中国の商人に請け負わさせた例。よっぽど日本に関わりの深い商人だったのだろう。それだけ外交が商人主体だったということか。とかく経済主体と言われる日中関係は昔から(政治家が関係の構築に構想がなく是認を主として進んで来た)、と言うべきかもしれない。
宋の次の「元史」日本の条は、そのほとんどを文永・弘安の役に関してのクビライと鎌倉とのやり取りが占める。この100年間の元の時代に次の明の時代の日本記述の殆どを占める倭寇の記述はない。
宮崎市定は倭寇を「海賊」規定することに反対していた。あくまで日明貿易に従事する武装商人だったと言うのが彼の主張だ。ではその何故、商人たちが明の沿岸部を荒らしたのか?宮崎は系統の違う日明を跨ぐ幇同士の抗争だと主張する。イギリスの海賊のように貿易に勤しみ、敵対商人には武を用いるそれが前近代の商人の姿だった。敵対幇の拠点や船が停泊する場所が襲われた。それを倭寇(前期)と称した。
後期になると倭寇は「十のうち倭は三」と言われるようになり、侵攻は大規模化陸を長く進軍し、南京に攻め寄せる時もあった。これは明王朝の海商への締めつけによって起こった内紛に日本側の商人が「義によって」助力したというのが宮崎説だ。大体16世紀初頭を境に前後で分かれる倭寇は日明の強まってゆく関係の緊密化によって生じて変化していった現象なのだ。
「青山」という国宝と言うべき琵琶がある。仁明天皇の承和2年(835年)に掃部頭藤原貞敏が唐に渡り琵琶の博士廉承武に師事して秘曲三曲を伝えられて帰朝した。その時に玄象、師子丸、青山の三面の琵琶も持ち帰ろうとしたが、海路が荒れて師子丸は龍神への供えとして海に沈んだ。残りの二面が帰り着いて国宝となった。
その時代の後、村上天皇の応和年間(961〜964年)の頃に帝が清涼殿にて玄象を弾いていた。十五夜の月が出て地上の闇を照らしている。昼とは異なる顔を見せる景色の中琵琶の音色が響く。弾き手の天皇自体が陶然とした境地で座っていた。ふと気づくと側に何者かが佇んでいる。穏やかに誰何すると口を開いた。
「唐の琵琶博士、廉承武でございます。」
百年以上前の人間ではないか、ということは亡魂。月の夜に誘われて幽冥の隔てを忘れたか。
「唐の名手がわざわざ何用が?」
聞かれるといかにも無念という調子で
「貞敏に秘曲三曲を伝授したのですが一曲のみが十分に伝えることができませなんだ。弾き手として心残りの余りに成仏できずに彷徨っております。どうか魔道から救っていただきたい。」
私に何ができるだろうか?そう思う天皇に廉は
「今上の帝の妙なる響きこそが我が闇を裂く光。技量は充分。伝授を受けてくだされ。それで心置きなく成仏できるでしょう。」
未完の秘曲が我が手で。傍らには同じく持ち帰られた青山が立て掛けられている。諾と想ったのを感じ、廉が名器、青山の転手を捻って調音した。
こうして百年も顕幽も飛び越えて最後の秘曲「上玄石上」が此の世に現れた。
これ以降、青山は唐の名手に敬意を評して弾かれることはなくなった。永い朝廷の歴史の逸話の一つだ。
その青山が平経正の手にある。竹生島での琵琶の奉納で龍の姿を現じさせた奏者としての技量だからこそ渡された。慌ただしさの中で仁和寺を訪れている。童形として仁和寺の御室に仕えていた。退去に際して、これだけはと思いここに来たのだった。お供の5、6騎のみを連れて門前で下り、
「今上は都を出て我らも西海に向かいます。8歳で仕えて13の頃まで側を離れなかった、その別れを。御前には甲冑をつけた姿なので、心残りですがここで告げさせてもらいます。」
と声を挙げた。当時の御室、覚性法親王はすでに没しているが、代替わりした現御室の守覚法親王がこれを伝えられて
「姿は改めずとも良い、通せ。」
と寺内に通させた。紫地の直垂に萌黄ぼかしの鎧を着て長覆輪の太刀、黒白別れた矢羽根の付いた矢を入れた箙、弓を帯びた若武者は庭に控えたが御出になった法親王が招いて大床に上がらした。
上がるや着いてきた藤兵衛有教から赤地の錦の袋を受け取った。差し上げる経正は涙を潤ませていた。
「かねてよりお預かりしていた名器青山です。このままどこかの鄙で失われるのはあまりに惜しいので、お手元に置いていただければ。」
もし帰ることがあるなら、再び手元へ、、、と言うと泣いてそれ以上は続けられなかった。法親王は胸に迫る者を和歌で表す。言葉はあまりに不自由だ。
あかずして わかるる君が 名残をば
のちのかたみに つつみてぞおく
と詠んだ。中世の頃の日本語ではまだまだ心の機微を語り尽くすことは出来ない。ならば和歌。それで身の内外の細やかさを表現することが出来る。経正は御硯を借り
くれ竹の かけひの水は かはれども
なおすみあかぬ みやの中かな
と変化した。周囲に控える者に堪えきれない程の想いが重なる。童形であった頃の姿を覚えている者も多いのだ。
「それではお暇を。」
とうとう立ち去る時だ。庭に降りて歩いてゆく武者に童形や出家者、坊官、寺侍までもが耐えきれずに袂にすがり、袖をつかみ名残を惜しんだ。皆泣いている。世が移りゆくのは分かっている。しかしそれを感じる時、人の情はどうしても悲しみを発してしまう。それを通り過ぎて西国に落ちてゆくのだ。
寺の小師の行慶というものは名残を惜しむあまり離れがたく桂川のそばまで見送った。これ以上は追ったとことでどうにもならないのでついに別れの時となったが猶も別れは悲しく、泣きながら
あはれなり 老木若木も 山ざくら
おくれさきだち 花はのこらじ
と歌を送った。
旅ごろも 夜な夜な袖を かたしきて
思へばわれは とほくゆきなん
が経正の返歌である。
「小師、もうここまでで。」
そう言うと巻いていた赤旗をざっと挙げた。挙げるや遠巻きについて来ていた武者が
「おおう。」
と駆けて集まった。その数100騎。後はものも言わずにひたすらに鞭を入れて馬を駆けさせ、行列に追いついたということだ。
童形、、、、元服前の稚児。
御室、、、、覚性法親王は鳥羽天皇の第五皇子。守覚法親王は後白河天皇の第二皇子。
長覆輪の太刀、、、、鞘から柄まで金属製の太刀。
小師、、、、まだ師についている出家者。
坊官、、、、寺の事務官。
「経正都落」「青山之沙汰」




