せめて世に在った証しとして
「旧唐書」日本の条に「日本は倭国の別種なり。その国、日の辺に在るを以て、故に日本を以て名となす。或いは曰く『倭国自らその名の雅やかならざるを悪み、改めて日本となす』と。或いは云う、『日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり』と。」という記述がある。この日本と倭国が戦って、という記述は「新唐書」にもあり、そこでは逆に倭国が勝って「日本を併わす事となった。」とある。「新唐書」によると持統天皇の記述の後にこの内戦の記述が来るので、壬申の乱以後にあった事になる。この日本対倭国の戦争は桓武天皇の時にほぼ収まった蝦夷との戦いを指すらしい。畿内にあった国家と日高見(東北)に在った集団の戦いは外から見ていると国号の変更も含めて関係が把握しにくかった、ゆえの記述の揺れということになる。日高見=日本の地を得た頃の国号の獲得地名への変更は当時の史家をさぞ混乱させたのだろう(前の記述で「天智天皇の頃の使節が同じ海中に在る島の蝦夷人を連れてきた」と記しているが、その蝦夷と地を争っていたとは気づかなかったのだろう)。
この戦争が続くさなか、日高見の地涌谷で黄金が発見される。後に「宋史」日本国の条で984年に使節で来た僧チョウ然(藤原真連の子)が「、、、、東の奥州には黄金を産し、西の離島には白銀を産し、それを中央の貢物へとしている。」と宋朝に言うぐらいの日本の大産物の発見であった。白銀(=銀)に関しては対馬で採れた産物だ。天武天皇の頃に初めて献上されたから8世紀中頃に奥州で黄金が発見されるまでは若き律令国家にとっては特に心強い存在だっただろう。発言があった984年の頃もわざわざ名前が挙がるということは奥州と並ぶ国家の二大産出源ととらえられていた事は間違いない。
金、白銀、鉄、硫黄、木材といった地下資源輸出国としてとらえられていた中世の入り口の日本の姿はよく分かる記事だと思う。
天皇を中心として淀の河口を目指す行列の中で不意に平忠度と供の5騎と童子の姿が消えた。混雑ゆえに目につかないだけかと思っていると、どうもいないらしい。気付いた者達が騒ぎ出したが今は先に進むことが肝要。列はとにかく尼崎の船着き場に急ぐ。そこに着いたのなら、福原へは船でも陸でもすぐだ。
25日の暗闇のなかで動き法皇は鞍馬寺に一時落ち着いたものの、唯一の同行者藤原資時が
「鞍馬寺だと都にまだまだ近く、思わぬ危険があるやもしれません。険路をゆくことになりますが、比叡山の方が。」
と申し上げて、寺僧も賛意したので比叡山へ難所越えをすることとなった。歴史上、およそこのような逃避行をした帝は居まい、年老いた法皇は喜怒哀楽もなく思った。
平家、皇統が都を離れたと広まったからか、現状を悲観してか貴族、女御達も都周辺の里に脱出している。民たちが残る京は騒乱の巷と化している。
五条の巷も騒がしい。その騒ぎ声が満ちる街の音が屋敷の塀の向こうから響いてくる。三位、藤原俊成の屋敷の門が叩かれた時、何者の来訪か、と家人は気を張った。
「平忠度が参った。」
と声が掛かると、より張った。何の用があっての訪問か、もう京を離れたのではないのか。ともかく面倒事はたくさんだ。門を閉めたままで居ると、下馬の音。
「特に何かということもないのですが、三位殿に伝えたいことがあって来ました。世の乱れゆえ開けれないと言うなら、門の傍まで寄ってもらえれば結構です。」
とはいえ気が立っているであろう落ち武者、何をするつもりか。とにかく俊成に伝えると、
「用で戻ることもあるだろう。忠度殿であるなら心配もあるまい。ここまで入ってもらえ。」
との事。門は空けられて部屋に通された。対面した忠度はこの数日の転変に少し疲れた様子と見えた。前から歌会で顔を合わせて交友を深めた身としては、その日々の姿と比べてどうしてもそう感じてしまう。されど声は英気を失ってはいない。
「何年もの間師事させてもらいましたが、ここ数年は他事多忙だった為、なかなか伺うこともできませんでした。お聞きのとおり、今上とともに平家は京を出ることになりました。自分も去りますが、歌の道に触れた者として命が下った和歌集に一首歌を残したいと思っておりました。勅撰和歌集の編集はこの事態で中止になっていますが、いずれ再開されるでしょう。」
そう言うと鎧の胴の合わせから巻物を出して置いた。
「目を通してご笑止して下さい、、、、もし一首でも選を被るなら御恩は如何に遠くなっても忘れることはないでしょう。」
「、、、、、。」
巻物を手にとって見る。文武ともに優れた武士と評判の忠度であった。交友を思い出す。
「力作、確かにお預かりしました。決して粗末にはしないとお約束します。それにしても、、、、、多事の中、わざわざのお越し、これこそ風情に優れ、もののあわれを感じるもの、感涙する思いです。」
そう言うと忠度は完爾と笑い、
「いや、これで思い残すことは無くなりました。後は西海に沈もうと、山野に屍を晒そうとも、侍ですので。それでは、これにて。」
「見送るぞ!外に出るが止めるな。」
馬に乗り、脱いでいた兜の緒を締めて去ってゆく。西へ何処まで。俊成は後ろ姿をじっと見送っていたが、姿が遠くなった時、忠度の声で
「前途程通し、思を雁山の夕の雲に馳す」
高らかに口ずさむのが聞こえた。それを聞いて三位俊成は涙を止めることができなかった。
後に藤原俊成は最後の勅撰和歌集「千載和歌集」を編纂し終えた。その中に
さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな
という一首が入れられた。詠み人知らずと記してある。
後は海に沈もうと、山野に屍を晒そうとも、、、、原文「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ」 万葉集長歌「海ゆかば水漬くかばね山ゆかば 草むすかばね大君の辺にこそ死なめかへりみはせじとことだて、、、、(大伴家持)」(軍事氏族の誉れを歌って)
「忠度都落」




