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奈落の底に満ちる瘴気は、地上を生きる脆弱な人間にとって、呼吸をすることすら許さない猛毒の海に等しい。
私は漆黒の玉座に頬杖をつきながら、遠征隊が我が領土へと足を踏み入れた瞬間から、その一部始終を「感知」していた。私の網の目のように張り巡らされた魔力は、彼らが流す冷や汗のひとしずく、恐怖に震える心臓の鼓動まで、手に取るように私に伝えてくる。
「本当に、見苦しい悲鳴ね」
王宮の精鋭、神殿の最高位魔術師、そして第一王子ジュリアンと新しき聖女リリア。
総勢五百名で構成されたという大層な「奈落遠征隊」だったが、地下大空洞の最深部であるこの漆黒の神殿へと辿り着く前に、螺旋状の回廊で次々と倒れ、その数はすでに十分の一以下にまで激減していた。
当然である。彼らは奈落をただの「深い大穴」程度に考えていたのだろうが、ここは世界に捨てられたあらゆる怨念と呪詛が凝縮された地獄だ。
結界の魔道具など、この濃密な瘴気の前には数分ともたずにパリンと砕け散る。
魔法障壁を失った兵士たちは、瘴気に肺を焼かれて血を吐き、狂い、互いに殺し合いを始めた。さらに、闇の中から襲いかかる異形たちの餌食となり、一人、また一人と肉塊に変えられていった。
「ジュリアン殿下……! も、もう無理です、戻りましょう! 身体が、身体が痛くて、ちぎれそうで……っ!」
リリアの泣き叫ぶ声が、魔力の反響となって私の耳に届く。
かつて磨き抜かれた陶器のようだと称賛された彼女の肌は、今や瘴気によって薄黒く変色し、美しい薄桃色の髪は泥と血に塗れて縮れていた。
「黙れ! 戻るだと!? 戻ってどうする! 地上はすでに呪いの海だぞ! あの女……エレナを見つけ出し、この呪いをすべて吸い取らせる以外に、私が助かる道はないんだ! そもそも貴様が無能なのが全て悪い」
ジュリアンの怒声には、かつての高貴な王子の面影など微塵もなかった。
彼の右腕はすでに完全に壊死し、ドロドロとした黒い膿を滴らせている。激痛のあまり正気を失いかけている彼は、足縺れを起こしたリリアの髪を掴んで無理やり引きずり、前へと進んでいた。
かつて「真の聖女」「愛しい人」と呼び、私からすべてを奪ってまで囲った少女を、今や肉の盾として扱いながら。
「――女王陛下、一団が神殿の門を潜りました」
玉座の傍らに立つ死霊騎士ヴァルターが、漆黒の兜の奥で紅い目を細め、静かに告げた。
彼の背後には、かつて地上で無実の罪を着せられ、あるいは都合よく切り捨てられて奈落へ落とされた、数百人の「罪人」たちが控えている。彼らはみな、怨念の力を得て異形の兵士、あるいはアンデッドとして蘇っていた。彼らの瞳にあるのは、冷徹な殺意と、これから始まる「宴」への狂気的な期待だ。
「ええ、分かっているわ。……さあ、最高の形でお出迎えしてあげましょう」
私は玉座からゆっくりと立ち上がった。
白銀の髪が、私の周囲で渦巻く黒い魔力に揺れる。血のように紅いルビーの瞳を爛々と輝かせ、私は禍々しくも美しい漆黒のドレスの裾を翻した。
重厚な神殿の扉が、ギィィィ……と不気味な音を立てて内側から開かれる。
そこへ転がり込むようにして入ってきたのは、ボロボロになり、生きる屍のようになったジュリアンたち、わずか三十名ほどの生き残りだった。
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「はぁ、はぁ、……ここ、か……? ここが、最深部か……」
ジュリアンは、辛うじて生き残った数人の近衛兵に肩を借りながら、広大な神殿の広間へと足を踏み入れた。
彼らの視界に飛び込んできたのは、世界の常識を遥かに超越した、圧倒的な「死と魔」の光景だった。
広間の両脇には、微動だにせず整列する漆黒の鎧の軍勢。その放つプレッシャーだけで、生き残った兵士たちの何人かが恐怖のあまり心臓を麻痺させてその場に崩れ落ちた。
そして、その中央の長い階段を上った先、巨大な漆黒の玉座の前に――彼女はいた。
「な……っ、あ、……え……?」
ジュリアンの口から、情けない掠れた声が漏れる。
彼の隣で床に這いつくばっていたリリアが、信じられないものを見るように目を見開いた。
「エ、エレナ……様……? そんな、嘘、でしょう……?」
彼らが知るエレナ・アークライトは、いつも痛みに耐えるように背を丸め、服の下に大量の包帯を巻き、生気を失ったひび割れた肌を濃い化粧で隠した、憐れで醜い「犠牲者」だった。
だが、今そこにいる女性は、どうだ。
月の光を吸い込んだかのような、眩いばかりの白銀の長髪。
一切の傷も、呪いの斑点もなく、大理石のように滑らかで完璧な、恐ろしいほどに美しい白い肌。
そして、見る者を一瞬で精神崩壊へと導くほどの圧倒的な魔力を放つ、深紅の瞳。
彼女の背後には、奈落の瘴気がまるで巨大な翼のように広がり、彼女自身がこの世界の支配者であることを無言で証明していた。
「ようこそ、我が領地へ。ジュリアン殿下、それにリリア様。……ずいぶんと薄汚れた姿でおいで公になりましたね」
私は、鈴の音のように清らかで、しかし心臓を凍りつかせるほどに冷たい声で、彼らを見下ろした。
「お前……本当に、エレナなのか……!? なぜ、なぜ生きている! なぜそんな姿に……その身体の傷は、呪いはどうしたんだ!?」
ジュリアンが狂ったように叫びながら、階段を数段、這い上がろうとする。
だがその瞬間、彼の前にヴァルターが音もなく立ちはだかり、巨大な大剣の切っ先をジュリアンの喉元に突き付けた。
「下がれ、女王陛下の御前であるぞ」
「貴様……! ヴ、ヴァルター……!? ま、まさか……。お前は、遥か昔に死んだはずでは……!」
ジュリアンは、先代の王が処刑したはずの聖騎士長が、より強大で禍々しい姿で蘇っているのを見て、完全に腰を抜かした。周囲の兵士たちも、あまりの絶望的な状況に、武器を握る手を震わせることしかできない。
「信じられない……。奈落に落ちて、死なないなんて……。それどころか、死者を甦らせる力までを……」
リリアがガタガタと震えながら、嫉妬と恐怖が混ざり合った目で私を睨みつける。
私は彼女を一瞥すら動かさず、ただジュリアンを見つめて、クスリと艶やかに微笑んだ。
「驚くことは何もありませんわ、ジュリアン。私はただ、あなたたちが私に押し付けた『呪い』を、この奈落の底で少しだけ、私の力として受け入れ直しただけに過ぎません」
「力……だと? ふざけるな! お前は聖女だろう! 人々を癒やすのがお前の義務だ!」
ジュリアンは喉元に剣を突き付けられながらも、自身の右腕の激痛に耐えかね、かつての傲慢さを剥き出しにして私を指差した。
「見ろ、私のこの腕を! この国が今、どんな目に遭っているか知っているのか! 結界は破れ、民も貴族も、皆お前が置いていった呪いの逆流で死に瀕している! お前がサボって奈落の底で遊んでいるからだ!」
「サボる、ですか。私をここに突き落としたのは、他ならぬあなたたちでしょうに」
「それはお前が醜い偽物になったからだ! ま、まあいい。その身体、その溢れるような強力な魔力! それだけの力があれば、我が国の呪いなど一瞬ですべて消し飛ばせるはずだ!」
ジュリアンの目は、完全に狂気に染まっていた。彼は未だに、私が彼らのために都合よく働く「ゴミ」だと思い込もうとしているのだ。人間の、王族の傲慢さとは、ここまで根深いものなのかと、私は深い感心すら覚えた。
「そうだ、エレナ! お前を許してやる! 婚約破棄も取り消して、お前を再び私の正妃として迎えてやってもいい! だから早く、早くその力で、私のこの腕の呪いを吸い取れ! そして国に戻り、すべての傷を引き受けろ! それがお前の、アークライト公爵家の義務だろうが!!」
近衛兵たちも、ジュリアンの言葉にすがるように、私に向かって必死に叫んだ。
「そうだ、エレナ様! 助けてください!」「俺たちの傷も治してくれ!」
彼らの言葉は、神殿の冷たい壁に虚しく響くだけだった。
私は、彼らの醜い懇願を静かに聞き届けた後、ふっと、これ以上ないほど優しく、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
それを見たジュリアンの顔に、一瞬、「あ、言うことを聞くぞ」という、浅はかな安堵の表情が浮かぶ。
だが、私の口から紡がれたのは、彼らを永遠の絶望へと叩き落とす、破滅の宣告だった。
「いいですよ」
私は、聖女だった頃のように、柔らかく、包み込むような声でそう言った。
「な……、本当か!? ならば早く――」
歓喜に顔を歪めようとするジュリアンを制するように、私は人差し指をそっと唇に当て、妖艶に微笑を深める。
「ええ、いいですよ。……ただし。今まで私があなたたちの代わりに肩代わりしてきた分の『痛み』、病、そして呪い。――今ここで、一括で返却(お返し)しますね。」
「……なに!?」
ジュリアンが呆けたような声を上げた、次の瞬間だった。
私の深紅の瞳が、ボゥッ、と禍々しい魔力の炎を宿して輝いた。
私が右手を軽く一振りすると、神殿の空間そのものが激しく歪み、ジュリアンたちの身体を取り囲むように、漆黒と紫の、おぞましい因果の糸が無数に浮かび上がった。
「あ、……ガ、あ……っ!?」
最初に異変が起きたのは、ジュリアンだった。
彼が「痛い」と声を上げる暇すらなく、彼の包帯で巻かれた右腕が、文字通り爆発するように内側から弾け飛んだ。
だが、肉片が飛び散るのではない。骨と筋肉が、一瞬にしてドロドロとした黒い液体へと腐食し、猛烈な勢いで彼の肩、そして胸元へと侵食していったのだ。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!」
神殿の天井を突き破らんばかりの、この世のものとは思えない凄惨な悲鳴が響き渡る。
ジュリアンはその場に転倒し、のたうち回った。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
彼がこれまでの人生で負い、私がすべて身代わりに引き受けて消し去ってあげた「すべての痛み」が、十数年分、一瞬で彼の肉体にバックしたのだ。
暗殺者に仕込まれた、内臓をドロドロに溶かす劇薬の苦しみ。
戦場で敵の重戦士に叩きつけられた、全身の骨が粉々に砕ける衝撃。
他国の魔術師から受けた、魂を絶え間なく火炙りにする精神の呪詛。
それらすべてが、一切の間引きなしに、一過性の津波となって彼の貧弱な肉体を襲う。
「あが、あ、熱い、痛い、痛い痛い痛い痛い!!! 身体が、裂ける、脳が、あ、あああああああ!!」
ジュリアンの皮膚の至る所から、ブツブツと黒い水疱が湧き出し、それが破れて中から血と膿が噴き出す。彼の自慢だった金髪は一瞬で抜け落ち、肌は生きたまま腐り、ただの動く肉塊のようになっていく。
「ひ、ひいいいっ! 殿下! 殿下ァァァ!」
隣にいたリリアが、恐怖のあまり失禁し、這いつくばって逃げようとする。
だが、因果の糸は彼女をも逃がさない。
「リリア、あなたもよ」
私は冷徹に彼女を見下ろした。
「あなたが『真の聖女』として祭り上げられ、まやかしで誤魔化し、他人の肉体に押し込めてきた呪いの数々……。その全ての因果は、術者であるあなたに帰属します」
「いや、嫌ぁぁぁ! 私は聖女よ! 神に愛された――あ、ぎゃ、あああああああっ!」
リリアの絶叫。
彼女の美しい顔半分が、一瞬にして焼けただれたように黒く変色した。彼女がジュリアンのために「治したフリ」をしていた呪いが、今度は彼女自身の顔を、身体を、容赦なく蝕んでいく。
彼女の爪は剥がれ落ち、指先からジワジワと肉が腐り落ちていく。
「エレナ様! 助けて、助けてください!!」
「俺たちが悪かった! 命令に従っただけだ!!」
近衛兵たちも、かつて戦場で私に治してもらった古傷が一斉に開き、内臓が破裂し、血反吐をぶちまけて床を転げ回っている。ある者は自分の首を掻き切り、ある者は劇痛のあまりショック死していった。
神殿の広間は、一瞬にして血と膿、そして人間の絶叫が渦巻く、文字通りの生首獄へと変貌した。
「ああ……なんて心地よい音色かしら」
私は玉座の前で、まるで美しい音楽に耳を傾けるように、目を閉じてその悲鳴を堪能した。
かつて私が、毎晩一人で、誰にも気付かれずに耐え続けていた孤独な劇痛。
それを、今、この痛みの張本人たちが、何倍にもなって味わっている。
「頼む……、殺して……、いっそ、殺してくれ、エレナ……っ」
床に転がり、もはや人間の形を保っていないジュリアンが、残された左手で私の靴を掴もうと、血の海を這いずってくる。彼の両目はすでに腐り落ち、何も見えていないはずなのに、私のいる方向だけを察して、涙と血を流しながら懇願してくる。
私は、彼の目の前までゆっくりと階段を降り、その醜い頭を、漆黒の靴の踵で静かに踏みつけた。
ぐにり、と鈍い音がして、彼の顔が床に押し付けられる。
「殺す? ……ふふ、そんなに簡単に楽になれると思っているの?」
私は屈み込み、ジュリアンの耳元で、甘く、冷酷に囁いた。
「ここは奈落の底。死すらも私の許しがなければ訪れない、永遠の檻よ。あなたたちが私に与えた地獄、その数千倍の時間をかけて、じっくりと、その身で味わい続けなさい」
ジュリアンとリリア、そして生き残った者たちの絶望に満ちた叫びが、奈落の闇の奥深くへと吸い込まれていく。
私の復讐は、まだ始まったばかり。地上に残るアークライト公爵家、そしてこの私を裏切った王国すべてを完全に滅ぼすまで、この冥府の宴は終わらない。
背後で、ヴァルターをはじめとする死の軍勢が、狂喜の咆哮を上げた。私は彼らを従え、今度は地上へとその冷たい眼差しを向けるのだった。




