恐怖の始まり
奈落の底は、ただの暗闇ではなかった。
国のあらゆる「負」が沈殿するその場所には、うごめく瘴気の雲の合間に、かつて栄華を誇り、そして歴史の闇に葬り去られた古代都市の残骸が静かに眠っていた。巨石で組まれた崩れかけの神殿、ひび割れた大理石の柱。それらすべてが、今や私の領土だった。
私は、怨念たちの手によって組み上げられた漆黒の玉座に深く腰掛け、己の中に渦巻く強大な怒りと魔力を確かめるように指先を動かした。
かつて私の肉体を苛んでいた激痛は、今や心地よい熱量へと昇華している。服の下の皮膚は、呪いの痣や古傷などどこにもなく、透き通るような白さを取り戻していた。それどころか、引き受けた数万の呪詛が、私の意志一つで牙を剥く最強の武器へと変貌している。
「――女王陛下。新たな同胞たちが集結しております」
玉座の前に跪き、恭しく頭を垂れたのは、一人の男だった。
名をヴァルター。かつては、ある亡国で最強と謳われた聖騎士団長でありながら、ジュリアンの曽祖父である国王の猜疑心に触れ、「反逆者」の濡れ衣を着せられてこの奈落へ突き落とされたという男だ。
彼もまた、私と同じように凄惨な拷問を受け、ズタズタにされて落とされたが、奈落の瘴気と私の魔力によって「死霊騎士」として蘇った。その肉体は漆黒の鎧に包まれ、かつての清廉な瞳は、私への絶対の忠誠を示す紅い炎へと変わっている。
「面を上げなさい、ヴァルター。集まった者たちの様子は?」
「はい。元貴族の魔術師、不当に処刑された異端の徒、そして人間に住処を追われ殺された魔の生き残り……総勢三万。みな、地上への燃えるような怨嗟を抱き、女王陛下のために命を賭す覚悟にございます。今やこの奈落は、地上を飲み干す影の軍勢の揺り籠。女王陛下の御号令一つで、いつでも地上へ進軍いたします」
ヴァルターの声には、狂信的なまでの熱が籠もっていた。
私は満足げに唇を歪める。
「いいえ、まだよ。慌てる必要はありません。果実が最も甘く熟すのは、完全に腐り落ちる直前でしょう? 彼らには、まず極上の恐怖と絶望を味わってもらわなければ」
私は玉座の脇に浮かぶ、直径一メートルほどの巨大な「黒水晶」に手をかざした。
この水晶は、奈落の瘴気の網を地上へと伸ばし、私の「復讐の対象」たちの様子を映し出す鏡。
黒い霧が水晶の表面を覆い、やがて視界が晴れると、そこには見覚えのある、そして反吐が出るほどに眩い王宮の執務室が映し出された。
「さあ、見せて。私という『生贄』を失ったあなたたちが、どのように破滅へ向かっていくのかを」
────
黒水晶の向こう側。
第一王子ジュリアンは、豪奢な机に肘をつき、ひどく機嫌悪そうに眉間を揉んでいた。その端正だった顔には、どことなく焦燥の影が張り付いている。
「……おい、リリア。まだ治らんのか。この程度の呪い、お前の『奇跡』なら一瞬で消し去れるはずだろう」
ジュリアンの声は、かつて私に放っていたものと同じ、冷酷な響きを帯び始めていた。
彼の目の前には、あの夜会で新しい聖女として祭り上げられた少女、リリアがいた。彼女は冷や汗を流しながら、ジュリアンの右腕に向けて必死に両手をかざしている。彼女の手からは、淡い桃色の聖なる光が放たれていた。
だが、ジュリアンの右腕の状態は異様だった。
手首から肘にかけて、まるで黒い蛇が這い回ったかのような、禍々しい呪いの痣が浮き出ている。それは数日前、国境付近の魔獣討伐の折に、ジュリアンが受けた「腐食の呪い」だった。
「殿下、そんなことをおっしゃられても……! 私は精一杯、神聖魔術を注ぎ込んでおります! ほら、痛みは和らいでいるでしょう!?」
リリアが金切り声を上げる。確かに、彼女の光が触れている間、ジュリアンは痛みに顔を顰めるのをやめた。
しかし、黒水晶を通して見ている私には、その「欺瞞」がはっきりと分かった。
「ふふ……本当に愚かな人たち」
私は思わず声を上げて嘲笑った。
リリアの持っている能力は、傷や呪いを消し去る本物の「奇跡」などではない。ただの「一時的な再生の欺瞞」に過ぎないのだ。
傷口の細胞を無理やり活性化させて繋ぎ合わせ、神経を麻痺させて痛みを忘れさせているだけ。つまり、呪いや毒の「根本的な原因」は、何一つ消えていない。ジュリアンの肉体の奥底へ、ただ澱のように押し込められ、蓄積しているだけなのだ。
これまでは、ジュリアンがどれほど呪われようとも、私がその「原因」を自分の肉体へすべて物理的に引き抜いていた。だからジュリアンは、常に清浄な身体を保っていられた。
だが、その引き受け手である私は、もうここにはいない。
「エレナの時は、触れられた瞬間に呪いの痣ごと綺麗に消え去ったぞ。なぜお前の光では、痛みが消えるだけで痣が広がっていくのだ?」
ジュリアンが苛立ちを露わにして、リリアの手を振り払った。
「ひっ……!」とリリアが短い悲鳴を上げて一歩下がる。
「それは……その、エレナ様の使っていた術は、きっと禍々しい呪術だったのです! 呪いを身体に溜め込むような、気味の悪い術を……! 私の癒やしこそが、神に許された正しい光なのです!」
リリアは必死に言い訳をまくしたてた。自分の地位を守るため、必死で私を貶めようとする。その姿は、あまりにも醜悪だった。
「呪術だろうが何だろうが構わん! 現に私の腕はまだ黒いままだぞ! 明日は隣国からの使者を迎える晩餐会があるのだ。このような醜い腕を見せられるか! 貴様、この私を騙しているのなら、ただじゃ済まさんぞ。お前もエレナと同じ目に……」
ジュリアンが怒りの声を上げたその瞬間――。
パキン……!
執務室の窓ガラスが、何の前触れもなく一斉に粉砕した。
「な、何事だ!?」とジュリアンが立ち上がる。
窓の外から流れ込んできたのは、夜の涼風ではなかった。それは、どろりとした、鼻を突くような腐臭を放つ「黒い霧」――かつてこの国が、そして王族たちが戦いや陰謀の中で生み出し、私がすべて引き受けていたはずの、数千の『怨念の残滓』だった。
王宮の庭園に植えられていた美しい花々が、その霧に触れた瞬間、一瞬で黒く腐り落ちていく。
遠くの兵舎からは、「ギャァァァアアア!」という兵士たちの凄惨な悲鳴が響き渡った。
「な、何だ、この霧は……!? 衛兵! 衛兵は何をしている!」
ジュリアンが叫ぶが、入ってきた衛兵の姿を見て、リリアは腰を抜かして悲鳴を上げた。
入ってきた衛兵は、顔半分が腐り落ち、ウジが湧き出たような凄惨な姿をしていた。彼は戦場でかつて負ったはずの「致命傷」が、今この瞬間に突然「再発」したかのように、血を吐きながら床に倒れ込んだ。
「殿下……助け……。昔、聖女様に治してもらったはずの傷が、突然、うあ、あああああああ!」
衛兵はそれだけ言うと、全身から血を噴き出して動かなくなった。
王宮だけではない。今やこの国全体で、同じ現象が起き始めていた。
私がこれまで「引き受けて」いたからこそ成り立っていた平和。その均衡が、私の追放によって完全に崩壊したのだ。
過去に救われたはずの者たちの身体から、当時の傷や病、呪いが一斉に「逆流」し始めている。それだけでなく、国全体を守っていた「聖なる結界」のエネルギー源もまた、私の聖女としての祈り(実際は呪いの吸収による土地の浄化)だったため、結界は完全に霧散していた。
「バカな……そんなバカなことが……! リリア! 早く結界を張り直せ! 兵士たちを治せ!」
「む、無理です! こんな、こんな大量の呪い、私には……あああああ!」
リリアは押し寄せる黒い霧のプレッシャーに耐えかね、頭を抱えて狂ったように叫び、部屋の隅へと逃げ出した。もはや「聖女」のプライドなど微塵もない、ただの怯える小娘だった。
「クソッ……! なぜこんなことに……!」
ジュリアンは自身の右腕を見た。
先ほどまで手首だけだった黒い痣が、今や肩口にまで急速に侵食してきている。内臓が焼けるような激痛が彼を襲い、ジュリアンはその場に膝をついた。
「ぐ、あああっ……! 痛い、熱い……何だこれは、まるで、身体が内側から腐っていく……!」
それは、かつて私が彼のために、何度も何度も引き受けてあげた「身代わりの痛み」の、ほんの一部に過ぎなかった。
────
それから、地上では地獄のような一週間が過ぎ去った。
国中に溢れかえった呪いと病、そして結界が消えたことで押し寄せる魔獣の群れにより、王国は崩壊の一途を辿っていた。
かつて私を「偽物」「醜い包帯女」と罵った貴族たちは、今や己の肉体を蝕む劇痛にのたうち回り、「エレナ様、どこへ行かれたのですか!」「早く奇跡を!」と、都合よく私を求めて泣き叫んでいる。
黒水晶に映るその様子を、私は奈落の特等席から、極上のワインを嗜むように楽しんでいた。
「ふふ、実に美しい光景ね。人間とは、これほどまでに脆く、愚かで、貪欲な生き物なのかしら」
「女王陛下、地上はすでに自滅の段階に入っております。……しかし、愚者どもが何か悪あがきを始めたようです」
傍らに控えるヴァルターが、冷ややかな声で報告した。
黒水晶の画面を切り替えると、そこには王宮の地下、禁忌の書庫に集まるジュリアンと、数人の老魔術師たちの姿があった。
ジュリアンの顔は灰色で、右腕は包帯でぐるぐる巻きにされているが、その包帯には黒い血が滲み出ている。痛みで完全に理性を失いかけている、狂気的な目。
『……古文書を見つけましたぞ!』
一人の老魔術師が、震える手で古ぼけた羊皮紙を広げた。
『聖女アークライトが使っていた力の正体が分かりました……! 彼女は、他者の傷を治していたのではない。自身の肉体に「引き受けて」いたのです!』
『何だと……!?』
ジュリアンが目を見開く。
『つまり、彼女は国中のすべての呪いや傷を、その身に溜め込んだ「究極の器」。……もしや、現在のこの呪いの逆流は、彼女が「奈落の底」に落ちたことで、器から呪いが溢れ出した、あるいは彼女が死んで因果が狂ったためでは……』
『なら、どうすればいい! どうすればいいんだ!この呪いはどうやったら止まる!』
ジュリアンが魔術師の胸ぐらをつかんで揺さぶる。
『ほ、方法、方法は一つしかありません……。奈落の底へ行き、彼女を――エレナを探し出すのです。もし生きているなら、再び脅してでも、力ずくでも呪いを引き受けさせる。もし死んでいるなら、その肉体に遺る「聖女の核」を回収し、リリア様に移植して新たな「呪いの器」とするしか……!』
画面の向こうで、ジュリアンは狂ったように笑い出した。
『そうか……! そういうことか! あの女、死んでまで私を困らせおって! 汚らしいゴミの分際で! 丁度いい替えの器があるのなら、困る事もないだろう』
ジュリアンは剣を乱暴に引き抜き、叫んだ。
『精鋭を集めろ! 奈落の底への遠征隊を組織する! あの女を見つけ出し、生きていれば、再び我が奴隷として呪いを吸い尽くさせ、この国を救わせる! 私のこの腕も、元に戻るのだ!』
そこまで見届けると、私は黒水晶の通信を指先一つでパチンと切った。
「あはははははははは!!」
奈落の広間に、私の楽しげな高笑いが反響する。
ヴァルターをはじめとする死霊の騎士たちも、主の笑いに合わせるように、カタカタと鎧を鳴らして冷酷に笑った。
「素晴らしいわ、ジュリアン。本当に、期待を裏切らない愚か者。自分たちが何をしたのか、まだ何も理解していないのね。私がまだ、あなたの言いなりになる、健気で従順な聖女だとでも思っているのかしら?」
私は玉座から立ち上がり、漆黒のドレスの裾を翻した。
その瞳は、深紅の魔力の輝きを放ち、周囲の瘴気を激しく渦巻かせる。
「いいですよ、来なさい。大歓迎してあげるわ。奈落の底は、あなたたちのような大罪人が落ちるのに、最もふさわしい場所なのだから」
私は、彼らが這いずり回ってやってくるであろう「奈落の入り口」を見つめ、妖艶な微笑みを浮かべた。
復讐の舞台は整った。ネズミたちが自ら罠へと飛び込んでくるのを、私はただ、優雅に待つだけで良いのだから。




