生贄の聖女、奈落に堕ちる
私の指先が触れると、騎士の裂けた脇腹から溢れていた鮮血が、嘘のようにピタリと止まった。
むき出しになっていた筋肉が蠢き、新たな皮膚が急速に再生していく。神聖な白い光が周囲を包み込み、見守っていた神官や兵士たちから「おお……!」と地鳴りのような歓声が上がった。
「さすがは『奇跡の聖女』エレナ様だ!」
「これで我が国の軍は不死身も同然。神の加護は我らにある!」
口々に私を称える声が響く。彼らの瞳にあるのは、純粋な崇拝と、それ以上に深い「安堵」だ。怪我をしても、呪われても、あの聖女が触れれば一瞬で元通りになる。彼らにとって、私は便利で、決して枯れることのない都合の良い泉のような存在だった。
「……終わりましたよ。もう大丈夫です」
私はできる限り慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、神官服の袖でそっと汗を拭った。
だが、その袖の下で、私の腕が激しく痙攣していることに気づく者は誰もいない。
――ぐ……つ、ああっ……!!
喉の奥まで出かかった悲鳴を、歯を食いしばって飲み込む。
誰も知らない。私の「奇跡」の正体を。
私の能力は、傷を消し去る魔法などではない。
「他者の肉体が負った傷、病、そして呪いを、そのまま自分の肉体に苦痛として受ける」という代償。それだけ地獄のような等価交換だった。
今、目の前で五体満足になった騎士の、あの凄惨な裂傷の痛み。引き千切られるような筋肉の拒絶反応。それら全てが、今この瞬間、私の脇腹へとそっくりそのまま転移している。
視界がチカチカと明滅し、内臓を素手で握り潰されるような激痛に意識が飛びそうになる。しかし、私は倒れることを許されない。
「見事だ、エレナ。お前は我が婚約者として、今日も完璧な役割を果たしてくれた」
背後から声をかけてきたのは、第一王子であり、私の婚約者でもあるジュリアンだった。金髪を華やかに揺らし、非の打ち所のない美貌に傲慢な笑みを浮かべている。
「ありがとうございます、ジュリアン殿下……」
「だが、何だその顔は? 少し顔色が悪いぞ。聖女たるもの、常に民に希望を与える美しさを保たねばならん。見苦しい真似は慎めよ」
ジュリアンの言葉は、私の胸を冷たく抉った。
私の顔色が悪いのは、負傷者の代わりに何度も猛毒や呪いの痛みを引き受けてきたからだ。戦場で彼が放たれた暗殺者の毒矢を受けた時、その毒をすべて我が身に移したのは私だ。彼が他国の魔術師から呪いを受けた時、その身を焦がす呪詛を肉体に刻み込んだのも、私だ。
その結果、私の魂や心、身体はもう限界を迎えていた。
服の下は、引き受けた古傷や呪いの痣のようにボロボロだった。肌は生気を失ってひび割れ、毎晩のように激痛で血を吐く。包帯を何重にも巻き、濃い化粧と魔法の薬で騙し騙し「聖女」の姿を保っているに過ぎない。
「……申し訳ありません。少し、疲れが溜まっているようで」
「ふん、軟弱な。神の力を預かる者が、その程度のことで弱音を吐くな。まあいい、明日は盛大な夜会がある。遅れるなよ」
ジュリアンは私を労ることもなく、冷たく背を向けて去っていった。
私は一人、痛む身体を引きずるようにして、薄暗い自室へと戻った。姿見に映る自分の姿を見る。鏡の中の私は、まるで行くあてのない亡霊のようだった。首筋まで広がる黒い呪いの斑点を指でなぞりながら、私はただ、神の沈黙に耐えるしかなかった。
────
翌晩、王宮の大夜会。
私は痛む身体をコルセットで無理やり締め付け、純白のドレスを纏って会場へと足を運んだ。しかし、会場に入った瞬間、いつもとは違う異様な空気に包まれていることに気づく。
貴族たちの視線が、同情と、あるいは明確な「蔑み」を孕んで私に突き刺さる。
「……来たわよ、偽物の聖女が」
「もうお役御免ですってね。あんな包帯だらけの気味が悪い女、最初から聖女にふさわしくなかったのよ」
ひそひそ話が耳に届き、心臓が凍りつく。
中央の雛壇に目を向けると、そこにはジュリアン殿下が座っていた。そしてその隣には――私ではない、見知らぬ美しい少女が寄り添っていた。
絹のような薄桃色の髪に、瑞々しい肌。彼女が微笑むたびに、周囲に柔らかな光の粒子が舞っている。
「エレナ・アークライト。前へ出よ」
ジュリアンの冷酷な声が広間に響き渡る。
私は動揺を隠し、震える足で彼の前へと進み、跪いた。
「……はい、ジュリアン殿下」
「お前に告げる。本日をもって、お前との婚約を破棄する。同時に、お前を『聖女』の座から解任し、アークライト公爵家からの廃嫡を決定した」
頭の上から落とされた雷撃のような言葉に、私は息を呑んだ。
「な……っ、なぜですか、殿下! 私は、私はこれまで、命を賭してこの国のために……!」
「黙れ、薄汚い詐欺師め」
ジュリアンは蔑むように私を見下ろし、隣の少女の肩を抱き寄せた。
「お前の『奇跡』とやらは、最近めっきり衰えた。傷一つ治すのにも時間がかかり、その身体は呪いと包帯まみれ。神に愛された聖女が、そんな醜い姿になるはずがない。お前は神の力を私物化し、そして神の怒りをかった。故に呪いを取り込むような邪悪な術を使っていたのだろう?」
「違います! 私の力の正体は――」
「言い訳は見苦しい!」
ジュリアンは私の言葉を遮り、朗々と宣言した。
「ここにいるリリアこそが、真の『癒やしの聖女』だ。彼女の力は本物だ。お前のように醜く肌を腐らせることもなく、清らかな光で人を癒やす。神の寵愛は、完全に彼女へと移ったのだ!」
「初めまして、エレナ様」
リリアと呼ばれた少女が、小馬鹿にしたような、哀れむような笑みを浮かべて私を見つめる。
「今までお疲れ様でした。これからは、私がジュリアン様とこの国を支えますから。お役御免の古い聖女様は、どうぞ安心してお下がりくださいね」
周囲の貴族たちから、どっと嘲笑が沸き起こった。
「そうだ、消え失せろ!」「醜い偽物め!」
私は血を吐くような思いでジュリアンを見上げた。
私の体がこうなったのは、誰のせいだと。戦場で負った毒を、浴びた呪いを、すべて私が代わりに引き受けたからだ。その結果を「醜い」「偽物」と切り捨てる。
「ジュリアン、様……あなたのために、私は……」
「見苦しいな。衛兵、この女を捕らえよ」
ジュリアンの目は、完全に冷え切っていた。そこには、かつて私に囁いた甘い言葉の破片すら残っていない。
「この女は国家の至宝であるべき聖女の座にありながら、呪術を用いていた疑いがある。また、王宮の機密を多く知りすぎている。……口封じを兼ねて、処刑とする」
「しょ、処刑……!?」
「ただの処刑では生ぬるい。こ奴の邪悪な体は、世界のゴミ箱に捨てるのがお似合いだ。――『奈落の底へ突き落とせ」
その言葉に、会場が一瞬で静まり返った。
奈落の底。この世界の最果てにある、底の見えない巨大な大穴だ。そこは濃密な瘴気が渦巻き、かつて世界を滅ぼしかけた魔女や、数多の怨念が蠢く絶対の死地と噂されている。生きて戻った者は誰一人としていない、この世で最も残酷な処刑場。
「お待ちください! 殿下! ジュリアン様!!」
私の叫びは、冷酷な衛兵たちの手によって掻き消された。
両腕を後ろ手に縛られ、引きずられていく私の視界の最後で、ジュリアンとリリアが杯を掲げ、勝利の笑みを交わしているのが見えた。
――こんなこと許せない。許されるはずがない。
私の心の中で、何かがパキリと音を立てて壊れ始めた。
────
世界から光が消えた。
嵐のような風の音が耳を瞑らせ、凄まじい速度で体が落下していく。
ガギィィィン、と途中の岩壁に体が激しく激突した。骨が砕ける鈍い音が響き、私の体は文字通り、ズタズタになりながら奈落の底へと落ちていった。
ドサッ……。
どれほどの時間が経っただろうか。湿った、そして異常に冷たい地面に、私の体は叩きつけられた。
普通の人間なら、落下の衝撃だけで即死している。だが、私の「聖女」としての無駄に高い生命力と、これまで引き受けてきた無数の治癒の残滓が、皮肉にも私を「生かし」続けていた。
「あ、……う、あ……」
口からドロリとした黒い血が溢れる。全身の骨は砕け、内臓は破裂している。奈落に満ちる濃密な瘴気が、傷口から侵入し、私の肉体をじわじわと腐らせていく。
痛い。痛い。痛い。
これまで他者から引き受けてきた全ての痛みに加え、今、世界で最も邪悪とも言われるエネルギーが私の体を破壊し尽くそうとしている。
もう、終わりにしよう。
目を閉じれば、楽になれるかもしれない。
そう思った瞬間、暗闇の中から、無数の「声」が聞こえてきた。
『苦しい……、苦しい……』
『なぜ、俺たちがこんな目に遭わなければならないんだ……』
『王族を、貴族を、世界を呪う……!』
『裏切られた……、捨てられた……!』
それは、過去に奈落へと突き落とされ、瘴気に呑まれて死んでいった数千、数万の罪人や敗者たちの怨念。そして、かつて封印された魔の者たちの呪詛のようだった。
無数の黒い影、異形の精神体が、新しい獲物を見つけたと言わんばかりに、私のボロボロの体に群がってくる。彼らは私を喰らい尽くし、我が物としようとしていた。
激痛。脳が焼け切れるほどの魂の汚染。
だが、その時、私の内に眠る「本質」が、カチリと噛み合った。
私の能力は、「他者の傷や呪いを引き受ける」力。
ならば――。
「引き受けて、あげるわ……」
私は、血塗れの唇で歪な笑みを浮かべた。
「全部よ。あなた達の傷も、あなた達の怨みも、あなた達の呪詛も……この奈落の底にある『すべての絶望』を、私の体に持ってきなさい」
その瞬間、群がっていた怨念たちの動きが止まった。彼らの魂は驚愕していた。いつもなら人間を狂わせ、腐らせるはずの呪いが、自ら進んでそれを「受け入れる」巨大な器に遭遇したのだから。
ズブズブと、黒い泥のような怨念が、私の傷口から流れ込んでいく。
引き受ける。引き受ける。引き受ける。
だが、今までとは違う。これまでは、他人の痛みを引き受けて「私が耐える」だけだった。
だが、今の私は、彼らの怨みと同調している。私もまた、すべてを裏切られ、世界を呪う者となったのだから。
苦痛を受け入れる。たったこれだけで、楽になるとは思わなかった。
『おお……、おおお……!』
『器が、満ちていく……!』
『我らの女王、我らの主よ……!』
怨念たちは、私を破壊するのをやめた。彼らは私の肉体を修復し、私の細胞一つ一つと融合を始めた。
引き受けた呪いは、もはや私を蝕む毒ではない。
私の血肉となり、私の「力」へと変換されていく。
バキバキと音を立てて骨が繋がり、ひび割れていた肌が、大理石のような滑らかで白い輝きを取り戻していく。髪は白銀へと染まり、瞳は血のように赤い、禍々しいルビー色へと変貌した。
私の中で、かつて「聖女の力」と呼ばれていた清らかな泉は完全に枯れ果て、代わりに、底知れぬ漆黒の魔力の海が誕生した。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
足元からは、黒い霧のような瘴気が立ち上り、私の体を包み込んで、高貴で禍々しい漆黒のドレスへと姿を変える。
「あはは……、あはははははは!」
暗闇の奈落に、私の高笑いが響き渡る。
涙はもう出ない。胸にあるのは、凍りつくような冷徹な歓喜だけだ。
私は死ななかった。
私は、奈落のすべての怨念を統べる者――「女王」として、今、生まれ変わったのだ。
「ジュリアン。リリア。そして、私を都合よく利用して捨てた、あの国の人々……」
私は自分の白い手をじっと見つめ、妖艶に微笑んだ。
「待っていなさい。あなたたちが私に押し付けた『地獄』、今度は私が返してあげるわ」
奈落の底で蠢く無数の異形たちが、私の言葉に応えるように、一斉に咆哮を上げた。復讐の幕は、今、切って落とされたのだ。




