視聴者5:神宮寺麻里
リモコンを手にしたまま、画面が暗くなってもしばらく動けなかった。
――NHK『プロフェッショナリズム ― 仕事の流儀:一ノ瀬直也という現象』。
放送の最初から最後まで、心の奥を撫でられるような感覚だった。
いや、正確に言えば、過去と現在の “ズレ” を突きつけられた気分。
本来なら、あの場所――あの食卓の向かい側に座っていたのは、私だったはず。
彼が帰ってくる時間を読みながら、ワインを冷やして、グラスを並べて。
“おかえり” の一言を投げかける、その距離にいた。
でも今、その場所にいるのは保奈美ちゃん。
しかも、その “おかえり” が、まるで祈りのように優しい。
映像を見ているうちに、胸の奥がチクリと痛んだ。
けれど、その痛みは、もう嫉妬じゃない。
あの子はいい子だ。
彼の家族であり、私にとっても “これからずっと付き合っていく子” だ。
脅威ではある。だけど、敵として見ちゃいけない。
――味方だ。
保奈美ちゃんは、彼を “人間” に留めてくれる貴重な存在。
私が支えるのは、彼の“仕事”の領域。
特に“AI”の方。
立っている座標が違うだけ。
思わず笑ってしまった。
昔は、あの距離を奪いたいと本気で思ってた。
でも今は違う。
私には私の領域がある。
GAIALINQのAI群を設計し、直也の思考を “数式” で補強する。
それが、今の私の場所。
私の中の “AIに関する専門性” がそれを誇りに代えてくれる。
……ただ、厄介なのは他にいる。
住田梨花。
あの娘、あんなに柔らかい声で “素敵な方です” とか言って、よく平気ね。
五菱商事の会長の孫娘が、政治の盾と恋の匂いを同時に漂わせるなんて反則。
彼女の立場を分かったうえで、計算してやってる。
分かる。
私と同じタイプの女だから。
――危ないのはそこ。
彼女の “理想” は、たぶん恋より上にある。
だから怖いし、そこは絶対油断できない。
そして、滝沢ミラ。
……もう、あれ何?
渋谷のステージ、ライトの中で “尊敬する方” って言いながら、完全に恋の目だったじゃない。
彼女が発する「未来」とか「サステナブル」とかいう言葉が、全部 “惚れてます” の翻訳にしか聞こえなかった。
あの演出、広報が仕掛けたの?
それともNHK?
どっちにしても、危機管理としては最悪。
私は心の中で「広報、また減点一」と呟いた。
でも、直也が映るたびに、結局それを許してしまう。
彼は無防備なんだ。
誰かを意図的に惹きつけているわけじゃない。
ただ “理想” と “現実” を同じ言葉で語れる、その希少さが、誰の心にも刺さる。
私も、その矢で撃たれたひとりだ。
でも私は、もう盾でもなく、恋人でもなく、“彼の内側” のメンバー。
その誇りが、まだ私を前に進ませている。
番組のラスト、
夜の会議室で語る直也の横顔が、ふっと浮かび上がった。
――自分以外の “守るべき誰かの笑顔” が必要になる――。
その声の低さ。抑えた呼吸。
もう直也が物語る “原点” は、その瞬間に切実な痛みを伴っている。
その “誰か” が以前は私だけであった時もあったのに……。
そして保奈美ちゃんの笑顔。
もう分かっているから。
保奈美ちゃんは味方だからいいの。
でも、この映し方はないんじゃない?
新婚の夫を迎え入れる新妻のような映し方なんて――。
私はそっと画面を止めて、グラスを手に取った。
冷めかけた赤ワインの香りが、少しだけ甘く感じた。
「……まったく。女泣かせにもほどがあるわよ。」
そう呟いて、笑った。
涙が浮かんだのを、誰にも見られなくてよかったと思った。




