視聴者3:新堂亜紀
リモコンを置いた指先が、わずかに震えていた。
夜十時を過ぎたオフィスの一角。
残業帰りのフロアに誰もいないのを確認してから、私はもう一度だけ再生ボタンを押した。
NHKの『プロフェッショナリズム ― 仕事の流儀:一ノ瀬直也という現象』。
――直也くんの、密着取材。
放送が始まるまでは、平然を装っていたのに。
映像が流れ出した瞬間から、胸の奥で何かがざわめいた。
羽田。
白い照明の下で、まっすぐ歩いてくる直也くん。
キャリーバッグの音、マイクが拾う低い声。
ああ、このトーン。
会議室で聞く声と、まるで同じ。
けれど、画面越しに見たその姿は、どこか遠い。
現実に知っている彼より、もっと研ぎ澄まされていて――まるで “象徴” そのものみたいだった。
私は、番組冒頭から何度も息をするタイミングを失っていた。
彼の指先の動き、息継ぎの間、表情の揺れ。
その全部が、仕事のスイッチを入れた時のそれだった。
そして同時に、あのスイッチが入った直也くんを、私は一番近くで見てきた。
だから分かる。
あれは、誰にも止められない時間。
それをわざわざ “全国放送” でさらけ出すなんて、ほんとうに大丈夫なの?――そんな不安が喉の奥で丸くなった。
……そして、あの夜のダイニングシーン。
白い灯の下で、彼を迎える少女。
ナレーションは、彼の “素顔” だと言った。
けれど、その “素顔” に映っていたのは、
私たちがどれだけ近くにいても見ることのできなかった、あたたかな表情だった。
(保奈美ちゃん……。)
あの声のトーン。
あの目線。
どれだけ疲れていても、彼が帰る場所は、あの子のいる家なんだ。
私は、そこに少しだけ安堵して、少しだけ胸が痛くなった。
それでいい。
彼の帰る場所が、ちゃんとある。
――そう自分に言い聞かせるのに、少し時間がかかった。
けれど、映像が切り替わって、
五菱商事の会議室に住田梨花が出てきた瞬間、私は思わず声を上げそうになった。
「……聞いてない。」
そんなシーン、台本にあった?
彼女の笑顔、あの“素敵な方です”って言葉。
そのトーンが柔らかすぎて、私は息を呑んだ。
仕事のパートナーとしての発言にしても、演出が甘い。
しかも――滝沢ミラまで?
渋谷のステージで、ライトを浴びながら、彼を“尊敬する人”と呼ぶ。
その言葉に隠れている気配を、私は見逃さなかった。
これは、偶然じゃない。
番組編集の並べ方に意図がある。
“仕事の流儀”を撮ると言いながら、恋愛ドキュメンタリーに変えてしまうなんて……。
(直也くん、どうして何も言わなかったの?)
番組企画の段階では、そんなに踏み込んだ構成じゃなかったはず。
GW明けからずっと休んでいない彼に、さらにこれだけの露出を重ねるなんて。
私は、手の中のペンを強く握りしめた。
何度も何度も考えてしまう。
もしこれが彼の限界を越える最後のピースだったら――どうするの?
彼は “自分が倒れる姿” を誰にも見せない人だ。
見せないまま、静かに壊れていくタイプだ。
“プロフェッショナリズム”。
それは、誰よりも正確な言葉だった。
けれど同時に、誰よりも残酷なタイトルだとも思った。
理想を持って現実を変える。
その手段を持ち続けようとする。
でも、そのために――自分以外の“守るべき誰かの笑顔”が必要になる――。
……彼が言った通りだ。
私もまた彼の笑顔を守ろうとして、だからこそ必死に戦ってこられたのだから。
でも本当に守れているのだろうか。
むしろ、私の方が守られているばかりではないだろうか。
そして、そんな彼が壊れずにいられる理由をラストに映し出すなんて……。
画面がフェードアウトしたあと、
私はしばらくリモコンを持ったまま動けなかった。
胸の奥で、二つの感情が同時にぶつかっていた。
ひとつは、誇り。
もうひとつは、焦り。
保奈美ちゃんの笑顔を思い浮かべた。
――あれと争っても全然ダメだ。
あれは “原点” なのだ。
だからそれとは異なるポジショニングが必要だ。
私は彼にとっての “盾” にならなきゃ。
彼が再びこの世界の何かを動かす前に、その負荷を受け止められる場所を作るのが、私の仕事だ。
――もう、嫉妬で揺れている暇なんてない。
番組を止めた画面の黒に、自分の顔が映る。
そこには、少し疲れた“ビジネスウーマン”がいる。
でも、次の瞬間、その影の奥で確かに笑っている自分がいた。
「……ほんと、手のかかる人。」
声に出したそのひと言が、夜のオフィスの空気をわずかに柔らかくした。




