第五十六話 帳簿の終焉
烏桓の騎馬隊が、
盧景の潜伏する洞窟を包囲した。
もはや、剣を抜く必要すらなかった。
盧景を守るはずの私兵たちは、
峻が「北方の契約」を、
成立させたことを知るや否や、
算を乱して投降したからだ。
峻は、松明の光が揺れる洞窟の奥へと、
一人で足を踏み入れた。
「……遅かったな、峻」
奥に座していた盧景は、
かつての派手な錦の衣を脱ぎ捨て、
薄汚れた着物一枚で冷たい石に腰掛けていた。
手元には、彼が命よりも大切にしていた
「秘蔵の帳簿」が置かれている。
「貴方の計算によれば、
私は今頃、烏桓の刃に倒れているはずでしたから」
峻は眼鏡の縁を直し、
無機質な声を響かせた。
「……認めよう。
お前は、数字を扱う才能だけは、
私を凌駕していた」
盧景は力なく笑い、
手元の帳簿を峻の方へと滑らせた。
「だが、これで終わりだと思うな。
この帳簿には、
私を通じて私腹を肥やした曹操軍の将、
そして豪族たちの名がすべて記されている。
……これを公開すれば、
曹操軍は内側から腐り落ちるぞ」
最後の、そして最も醜悪な「脅迫」。
だが、峻はその帳簿を一瞥だにしなかった。
「……残念ですが、
盧景殿。
その帳簿には、もはや一文の価値もありません」
「なんだと……?」
「貴方が今日まで『資産』だと思っていた、
その人脈、そして負債の記録。
……それは昨夜のうちに、
私がすべて『償却』しました」
峻は懐から、一通の命令書を取り出した。
そこには曹操の直筆で、
**【過去の不適切な取引に関与した者、
自ら申告し全額を献納せし者は
、一切の罪を問わず】**と記されていた。
「……っ! 曹操様が、
そんな甘い沙汰を出すはずがない!」
「甘くはありません。
……彼らは、貴方に握られている『弱み』、
という負債を帳消しにするために、
競うようにして私の元へ金を運び込みました。
……結果、我が軍の軍資金は、
貴方の想像を絶する額にまで膨れ上がっています」
峻は、一歩、盧景に歩み寄った。
「貴方が持っているのは、
ただの『死んだ数字』の羅列だ。
……誰からも必要とされず、
誰の脅威にもならない。
……数字を愛した貴方にとって、
これ以上の屈辱はないでしょう?」
盧景の顔から、急速に生気が失われていった。
裏切り。
横領。
暗躍。
彼が人生をかけて築き上げてきた、
「影の王国」が、
峻という事務屋によって、
ただの「不要なデータ」として、
ゴミ箱に捨てられたのだ。
「……殺せ。……いっそ、斬り捨てろ!」
盧景の叫びは、虚しく壁に反響した。
「殺しません。
……貴方は、これから一生をかけて、
自分が汚した帳簿を書き直すための
『奴隷官吏』として働いてもらいます」
峻は冷たく言い放ち、背を向けた。
「……死よりも過酷な、
終わりのない事務作業が、貴方の刑罰です」
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洞窟を出た峻の前に、朝日が昇り始めていた。
郭嘉が、馬に揺られながら近づいてくる。
「……終わったか、峻」
「はい。……誤差、零です」
峻の言葉に、郭嘉は満足げに頷いた。
だが、その視線はすでに、
太行山脈のさらに先
――乱世の真の主たちが待つ、
次なる戦場へと向けられていた。




