第五十四話 包囲する帳簿
軍の再編が終わると同時に、
峻は新たな「指令」を発した。
それは、剣を振るうことでも、
敵陣へ突撃することでもない。
周辺の村落と豪族に対し、
特定物資の買い占めを命じる――
奇妙な布告だった。
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「……峻殿、本気ですか」
監査班の官吏が、震える手で予算書を差し出す。
「これほどの高値で『塩』と『油』を買い取れば、
せっかく蓄えた資金が底をつきます」
「構いません」
峻は即答した。
「今は『数』より、『占有』が優先です」
そう言って、地図上の太行山脈を指でなぞる。
「盧景は袁紹軍の残党と共に山中へ潜んでいる。
だが、山で自給できないものがある」
峻は淡々と告げた。
「塩。
そして、夜を越すための灯火の油です」
静かな声だった。
だが、その内容は冷酷だった。
「この周辺一帯から、それらを消し去る。
そうすれば、彼らの帳簿は数日で破綻します」
峻が築いたのは、城壁でも包囲陣でもない。
――物流の空白。
それによる、緩やかな絞殺だった。
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三日後。
太行山脈の奥深く。
険しい岩壁に囲まれた隠れ里。
かつて優雅に商談をまとめていた盧景は、
煤けた衣を纏い、焦燥に満ちた顔で立っていた。
「……どういうことだ。
なぜ運び込まれない!」
怒号が、冷えた洞窟に反響する。
「そ、それが……!」
部下の声も震えていた。
「周辺の豪族たちが、
曹操軍の事務官に法外な値で買われたと……。
こちらへ回す余裕がないと申しております……!」
盧景は、乏しい蓄えへ視線を落とした。
干し肉はある。
だが、塩がない。
武器はある。
だが、夜を照らす油がない。
沈黙の中、盧景は歯を軋ませた。
「……あの男か」
脳裏に浮かぶのは、
眼鏡を掛け直す峻の姿。
冷徹な、あの目。
峻は、盧景が最も得意とする「取引」の土俵で、
圧倒的な資本を叩きつけてきた。
曹仁から没収した莫大な財。
それを元手に、市場そのものを奪い去ったのだ。
山を下りれば曹操軍。
山に残れば、欠乏が待つ。
逃げ場はない。
「……舐めるなよ、小役人が」
盧景は懐から、一通の書状を取り出した。
それは、袁紹軍残党すら超えた、
さらに北方の巨大勢力へ繋がる“禁断の線”だった。
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その頃、曹操軍本陣。
峻は郭嘉と共に、静かに揺れる灯火を見つめていた。
「……食いついたな、峻」
郭嘉が密書を軽く振る。
「盧景の奴、ついに“北”へ助けを求めたぞ」
「予想通りです」
峻は、新たな帳簿へ筆を走らせる。
「市場を奪われれば、彼は必ず外部資本へ頼る。
そういう人間です」
帳簿には、すでにその動きまで記されていた。
「郭嘉殿。
これで、盧景の背後にいる
『真の管理者』が姿を現します」
「ああ。だが相手は、袁紹の遺児か……あるいは――」
「誰であれ、関係ありません」
峻は算盤の珠を、一気に弾いた。
乾いた音が夜気を裂く。
「私の帳簿から逃げられる不純物は、
この世に存在しません」
夜風が、羽織を激しく揺らした。
事務屋の知略は、今や一軍の進退を超え、
北方の勢力図そのものを書き換えようとしていた。




