第五十話 情報の猟犬
深夜の補給部執務室。
峻は、わざとらしく椅子に深く沈み込む。
机の上に突っ伏して眠った振りをしていた。
灯火は低く落とされ、
部屋の隅々は深い影に覆われている。
傍らには、昼間曹操に見せた「偽の帳簿」が、
無造作に置かれたままだ。
(……来るか)
呼吸を整え、聴覚を極限まで研ぎ澄ます。
廊下の遠くで、微かな、
本当に微かな衣擦れの音がした。
扉の隙間から、細い針金のようなものが差し込まれる。
音もなく閂が外れ、
影が部屋へと滑り込んできた。
影は峻の様子を伺い、
彼が深く眠っていることを確認すると、
迷わず机の上の帳簿へと手を伸ばした。
素早い手つきで懐の白紙に数字を写し取っていく。
(……補給部の下っ端ではないな。
この手際の良さは、手慣れた間諜だ)
峻は動かない。
今ここで捕らえても、
末端の駒を潰すだけに終わる。
大事なのは、この「毒入りの中身」が、
誰の胃袋に運ばれるかだ。
影が去り、扉が静かに閉まる。
数秒待ってから、峻は目を開けた。
「……行ったか?」
部屋の天井裏から、
一人の男が音もなく舞い降りた。
韓恢だ。
彼は峻に命じられ、
数日前からこの部屋の監視を続けていた。
「ああ。あれは『盧景の犬』のなかでも、
特に鼻の利く奴だ。
……今頃、喜び勇んで主人の元へ駆けているだろうよ」
峻は立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。
「韓恢殿。追跡の準備は?」
「抜かりはない。郭嘉殿の配下が、
すでに影となって張り付いている」
韓恢は、どこか楽しげに歪んだ笑みを浮かべた。
「事務屋。お前の書いたあの『嘘』。
……ありゃ、最悪の劇薬だぞ。
一ヶ月後に食料が尽きると信じた敵は、
必ずそこを叩こうと動く」
「ええ。その時こそが、
この軍の『欠落』を完全に埋める好機です」
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翌朝。
郭嘉の天幕を訪れた峻を待っていたのは、
一枚の小さな紙片だった。
「拾ったぞ、峻」
郭嘉は、酒の代わりに冷めた茶を啜りながら、
その紙を差し出した。
「お前の『嘘』は、本営を出て東へ向かった。
……行き先は、袁紹軍の残党が潜む、太行山脈の麓だ」
峻は、地図の上に指を置いた。
「……盧景は、そこにいるのですね」
「それだけじゃない」
郭嘉の目が、冷酷な軍師のそれに変わる。
「お前の帳簿に釣られて、面白い奴らが動き出した。
……曹仁の件で沈黙していたはずの、
一部の地方豪族たちが、
一斉に兵糧の出荷を止めたんだ。
曹操軍の崩壊を確信して、
勝ち馬に乗り換える準備を始めたんだろうよ」
峻は、静かに拳を握りしめた。
裏切り者のリストが、
数字の動きによって自動的に更新されていく。
「……計算通りです。郭嘉殿」
「ああ、計算通りだ。……だがな、峻。
敵も馬鹿じゃない。
お前の『嘘』がバレる前に、
こっちから仕掛けなきゃならん。
……戦だぞ。
算盤を剣に持ち替える覚悟はできているか?」
峻は、窓から見える兵たちの練兵風景を見つめた。
そこには、峻が「水」と「肉」の管理を徹底し、
密かに活力を取り戻させた兵たちの姿があった。
「……私は、最後まで事務屋として戦います」
峻の声に、迷いはなかった。
「数字で敵を誘い出し、数字で敵を圧殺する。
……それが私の戦場です」
太行山脈へと続く街道。
そこには、峻が描いた「偽りの崩壊」という脚本を信じ、
口を開けて待つ怪物の姿があった。




