第四十九話 偽りの余白
本営の深夜、峻の執務室だけが、まるで孤島のように明かりを灯し続けていた。
峻は、二つの帳簿を同時に書き進めていた。
一つは、韓恢の闇ルートを洗浄し、軍の再建を確実に進める「真実の帳簿」。
もう一つは、補給が滞り、兵の離脱が止まらない絶望的な状況を装った「虚偽の帳簿」だ。
(……数字に説得力を持たせるには、適度な『誠実なミス』が必要だ)
峻は、偽の帳簿の隅に、わざと計算が合わない箇所をいくつか作った。
完璧すぎる嘘は、郭嘉のようなキレ者にはすぐに見破られる。
「必死に隠そうとしているが、隠しきれていない綻び」を演出することこそが、この偽装の核心だった。
「……峻。まだ起きているのか」
背後から、低く重みのある声がした。
振り返るまでもない。
曹操だ。
峻は立ち上がり、深く一礼した。
「……曹操様。このような時刻に」
曹操は峻の机に歩み寄り、二つの帳簿を見比べた。
その視線が、偽の帳簿の「綻び」に止まる。
「……面白い。お前は、数字で迷路を作っているのか」
「迷路ではありません。鏡です」
峻は、顔を上げずに答えた。
「敵が望んでいる『曹操軍の弱体化』という虚像を、鏡に映して見せているだけです。
……彼らがその虚像に触れようと手を伸ばした瞬間、そこには鏡ではなく、本物の刃が待っている」
曹操は、峻の肩に手を置いた。
その手は驚くほど熱く、重い。
「峻よ。お前はかつて、数字には情がないと言った。
……だが、今のお前が書く数字には、どす黒い情念が籠もっている。
……それは、私と同じ色だ」
峻の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
「……身に余るお言葉です」
「案ずるな。私はお前のその色を嫌いではない」
曹操は、偽の帳簿の一ページを指先で弾いた。
「この嘘を、誰に『拾わせる』つもりだ? 盧景の耳は、まだ軍の奥深くに潜んでいるのだろう?」
「……近衛の残党、そして補給部で韓恢に切り捨てられた小役人たちです」
峻は、冷徹に答えた。
「彼らには、私が『追い詰められて捏造した帳簿』を盗ませる隙を与えます。
……彼らがそれを盧景の主へと届けた時、この作戦は完成します」
曹操は、満足げに笑った。
その笑みは、獲物を追い詰める猛禽のそれだった。
「……よかろう。事務屋の狂気、存分に振るえ」
曹操が去った後、峻は再び筆を執った。
窓の外では、夜明け前の最も深い闇が本営を包んでいる。
(……選別されるのは、私ではない。……貴方たちだ、盧景)
峻は、偽の帳簿の最後に、決定的な「嘘の数字」を書き込んだ。
それは、一ヶ月後に行われるはずの「架空の補給会議」の日程。
敵を誘い出し、すべてを清算するための、死のカウントダウンが始まった。




