第四十七話 毒の連鎖
地下牢の空気は、湿り気と鉄錆の匂いに満ちていた。
かつて補給部の実権を握り、峻を「選別」しようとした男、韓恢。
彼は今、枷に繋がれ、力なく壁に背を預けている。
「……殺しに来たか。事務屋」
韓恢の声は枯れていたが、その瞳にはまだ、組織の裏側を覗き続けてきた者特有の狡猾さが残っていた。
峻は無言で、机代わりに持参した木箱を置き、その上に数冊の帳簿を広げた。
「殺しはしません。貴方には、数字を洗ってもらいます」
峻の言葉に、韓恢が力なく笑った。
「私に曹仁の罪を数え上げさせ、道連れにするつもりか? 律儀なことだ」
「違います」
峻は、韓恢の目の前に、曹仁から押収した「隠し資産の目録」を突きつけた。
「これを一ヶ月以内に、正規の軍費として洗浄し、前線の兵糧に変換してください。
……貴方が盧景と共に築き上げた、あの『闇の商路』を使って」
牢内に、凍りつくような沈黙が流れた。
韓恢の目が、驚愕に見開かれる。
「……正気か。それは、曹操様を裏切ったルートをそのまま使うということだぞ。
発覚すれば、お前も首が飛ぶ」
「発覚はしません。私が『正しい数字』として上奏するからです」
峻は、韓恢の瞳を真っ直ぐに見つめた。
そこには、以前のような怯えはない。
あるのは、目的を遂行するためなら、清濁を併せ呑むという冷徹な意志だ。
「貴方は、組織の余白で私腹を肥やす天才だった。
その才能を、今度は軍の欠落を埋めるために使ってください。
……成功すれば、貴方の処刑を『病死』に書き換え、別の名で生きる道を用意します」
韓恢はしばらく峻を凝視していたが、やがて、喉の奥で低く笑い始めた。
「……ククッ。とんだ化け物を育ててしまったものだ。
曹操様も、お前がこれほど『汚れる』計算はしていなかっただろう」
「汚れではありません。最適化です」
峻は、韓恢の枷を外すための鍵を机に置いた。
「明日から、貴方を私の私的な『監査協力者』として登録します。
……まずは、この隠し資産を、洛陽周辺の豪族たちから『自発的な献納金』として回収するスキームを組んでください」
韓恢が、震える手で帳簿を手に取った。
その瞬間、事務屋と犯罪者の間に、奇妙な「共犯関係」が成立した。
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二日後。
本営の執務室で、峻は郭嘉と対峙していた。
「聞いたぞ、峻。あの韓恢を牢から出したそうだな」
郭嘉は、呆れたように、しかしどこか楽しげに言った。
「軍法会議が黙っていないぞ。どう言い訳するつもりだ?」
峻は、すでに書き終えた数枚の報告書を差し出した。
「言い訳はしません。これは、曹仁将軍の残党を炙り出すための『おとり捜査』の結果です。
……韓恢は、そのための協力者として、すでに曹操様の裁可を得ています」
郭嘉は報告書に目を通し、口笛を吹いた。
「……なるほど。洗浄した金を『回収された横領金』として計上したか。数字の上では、これ以上ないほど潔白だな」
「数字は、見せ方次第で毒にも薬にもなります」
峻は窓の外を見やった。
遠くで、兵糧を積んだ荷車が動き始めている。
「郭嘉殿。……私は、自分の手を汚すことを躊躇いません。
ですが、数字だけは、常に美しく整えておきたいんです」
その横顔には、かつての弱々しさは微塵もなかった。
事務屋の峻は、乱世という巨大な帳簿を書き換えるための、冷徹な「筆」へと変貌していた。




