第四十一話 欠落の防衛線
地響きは、止まない。
鉄靴が地面を叩く規則正しい音。
それが近衛区の静寂を、無慈悲に塗りつぶしていく。
「……趙累、貴様」
郭嘉の短刀が、趙累の喉元を鋭く突いた。
だが、老官吏は動じない。
「言ったはずだ。計算は終わっている、と」
趙累の視線は、郭嘉ではなく峻に向けられていた。
「峻よ。お前が暴いた『干し肉の過剰』。
……それは、この鋼の軍勢が、曹操様の喉元を食い破るための活力となった。
皮肉なものだな」
峻は、震える手で机の上の帳簿を掴み直した。
思考が、焼けるような速度で回転を始める。
(……いや、まだだ。数字は嘘を吐かない。だが、見落としはあるはずだ)
峻は、郭嘉に叫んだ。
「郭嘉殿! 趙累を連れて曹操様の寝所へ! 私は補給庫へ戻ります!」
「正気か、峻! 外はすでに敵の支配下だぞ!」
郭嘉が驚愕に目を見開く。
峻は、趙累の机の上にある一枚の「当直表」をひったくった。
「この鋼の連中にも、弱点はあります。……『数』が多すぎるんです!」
峻は幕舎を飛び出した。
燃え盛る補給所の方角から、熱風が吹き付ける。
(二斤の干し肉。重装歩兵。……彼らが身に纏うのは、最新の全身鎧だ)
峻は走りながら、脳内の帳簿をめくる。
重装歩兵は無敵ではない。
その圧倒的な防御力と引き換えに、彼らは致命的な「欠落」を抱えている。
(水だ)
鋼を纏い、高カロリーの肉を食らい、
激しく動く。
その肉体が発する熱量は、
通常の兵の数倍に達する。
彼らを維持するには、膨大な「水」の供給が不可欠だ。
(近衛区の井戸は、昨日、私が清掃と点検のために一時封鎖を命じた)
それは事務屋としての、ただの定期業務だった。
だが今、その「事務的な処理」が、最強の軍勢に対する唯一の防壁となる。
峻は、暗闇の中に潜む「水場」の管理小屋へと滑り込んだ。
そこには、峻の息がかかった数人の雑務係たちが、
怯えながら身を潜めていた。
「……全員、聞け。算盤を捨てろ」
峻は、小屋の隅にある巨大な「水門のレバー」を指差した。
「今から、この軍の『循環』を止める。……近衛区への給水を、完全に断て」
雑務係の一人が、震える声で言った。
「ですが、それでは曹操様のお食事や、他の兵たちの飲み水も……」
「構わない。曹操様なら、一日や二日の渇きは笑って耐えられる」
峻は自らレバーに手をかけた。
「だが、あの鋼を纏った連中は違う。……一刻もすれば、彼らは自分の鎧の中で、己の熱に焼かれて動けなくなる」
ギ、ギギ……と、錆びた鉄が悲鳴を上げる。
水門が閉まり、地下を流れる水の音が途絶えた。
峻は、手の中の当直表を握りしめた。
そこには、反乱軍の進軍ルートが、水の供給源をなぞるように記されている。
「……ここからは、我慢比べだ」
外では、鋼の音が一段と高くなっていた。
だが、その音はどこか、焦りを含んでいるように峻には聞こえた。
事務屋が仕掛けた、目に見えない「渇き」という名の罠。
それが、曹操軍の運命を左右しようとしていた。




