第四十二話 熱の中の静寂
水が止まった。
その事実は、最初は微かな違和感として反乱軍に浸透していった。
近衛区の奥。
曹操の寝所へと続く回廊では、鋼の鎧に身を包んだ「重歩兵」たちが、確実にその歩みを遅らせていた。
「……暑いな」
一人の兵が、面頬の奥で掠れた声を漏らした。
彼らが纏うのは、盧景が商隊を介して横流しした、最新鋭の全身鎧だ。
防御力は無敵に近い。
だが、それは同時に、熱を閉じ込める「鋼の牢獄」でもあった。
高カロリーの干し肉を食らい、極限まで練り上げられた筋肉が動くたび、鎧の中の温度は上昇し続ける。
本来なら、廊下に置かれた水瓶や、随所に配置された井戸が、その渇きを癒やすはずだった。
だが。
「水がない……だと?」
指揮官らしき男が、空の水瓶を叩き、激昂した。
一方、水門の管理小屋。
峻は、暗闇の中で計時の砂時計を見つめていた。
(……一刻が経過した)
脳内の帳簿が、急速に書き換えられていく。
人間の生存に必要な水分量。鎧の重量。外気温。運動強度。
それら全ての変数を掛け合わせ、峻は導き出す。
「……もう、剣を振る力は残っていないはずだ」
峻は、震える脚で立ち上がった。
雑務係の一人が、その裾を掴む。
「峻様、どこへ……! 外はまだ、あの化け物たちが!」
「計算の確認だ」
峻は短く答えた。
「事務屋が算盤を弾くだけで戦が終わるなら、
誰も苦労はしない。……最後の一行を書き込むのは、私の仕事だ」
峻は小屋を出た。
手には、水門の操作盤から引き抜いた「鉄の棒」を一本だけ握っている。
回廊は、異様な光景に包まれていた。
最強を誇ったはずの重歩兵たちが、壁に寄りかかり、あるいは膝をついている。
彼らは傷ついてはいない。
ただ、己の体温に焼かれ、一滴の水も得られない絶望に、機能を停止させていた。
「……補給監査だ」
峻の声が、静まり返った回廊に響く。
一人の兵が、恨みがましい目で峻を見上げた。
剣を抜こうとするが、その腕は痙攣し、鉄の重みに耐えきれず地面に落ちた。
「貴様らへの『給与』は、停止した」
峻は、倒れた兵たちの間を、悠然と歩いていく。
その足取りは、もはや怯える小役人のものではなかった。
「干し肉の過剰配分。井戸の清掃記録の改竄。……それら全ての数字の裏をかき、貴様らの『燃費』を計算した。……結果は、ご覧の通りだ」
峻は、回廊の突き当たり。
曹操の寝所を守る最後の扉の前に立った。
そこには、郭嘉が趙累を組み伏せたまま、呆然と峻を見つめていた。
「……峻。お前、本当にやったのか」
「はい。軍の循環を、一時的に絶ちました」
峻は郭嘉に歩み寄り、趙累の懐から一束の巻物を取り出した。
それは、偽装された帳簿の「真の所有者」を記した、血塗られた署名簿だった。
「……これでおしまいです、趙累殿」
峻がその巻物を広げようとした、その時。
扉の奥から、低く、全てを見透かすような笑い声が響いた。
「……見事だ」
扉がゆっくりと開く。
そこには、一滴の汗もかかず、平然と酒杯を傾ける曹操の姿があった。
「数字で国を救うとは、こういうことか」
曹操の目が、峻を射抜く。
だが、その視線の先にあるのは、賞賛だけではなかった。




