第四十話 静寂の断罪
夜の帳が、本営の喧騒を飲み込んでいく。
峻は、郭嘉の背中を追って近衛の管理区へと足を踏み入れていた。
周囲は、異様なほどに静まり返っている。
警備の兵たちは石像のように立ち尽くし、その視線には一切の揺らぎがない。
「……気づいたか、峻。ここの連中、瞬きさえ揃っている」
郭嘉が、毒を含んだ笑みを浮かべて囁く。
峻は無言で頷いた。
事務屋の目は、彼らの「動き」ではなく、彼らが作り出した「空間」の違和感を捉えていた。
(不自然なほどに、清潔だ)
補給の現場には、必ず生活の汚れが出る。
こぼれた米、油の染み、あるいは兵たちの不満の声。
だが、この近衛区にはそれがない。
「軍の目、峻であります。監査に参りました」
峻の声が、冷たい廊下に響く。
奥の部屋から現れたのは、白髪混じりの、見るからに実直そうな老官吏だった。
近衛糧食長、趙累。
三十年、曹操の食を支え続けてきた男だ。
「……こんな夜更けに、何用か」
趙累の声は穏やかだった。
だが、峻は迷わず懐から一冊の帳簿を取り出し、机に突きつけた。
それは、火災のあった補給所から救い出した、張温の「偽装印」が押された裏帳簿だ。
「趙累殿。この帳簿にある『架空の秣』の代金。……その一部が、近衛の最高級の干し肉に化けています」
趙累の眉が、ピクリとも動かない。
「干し肉か。近衛の体力維持には必要なものだ。予算の範囲内であれば、何の問題もあるまい」
峻は、一歩踏み込んだ。
「問題は、予算ではありません。……『数』です」
峻は帳簿をめくり、指先で数字の列を叩いた。
「この一年、近衛部隊に配備された干し肉の総量は、一人当たり一日二斤を超えている。……趙累殿、貴方は人を食わせているのではない。鋼を食わせている」
郭嘉が、面白そうに目を細める。
「二斤か。そいつは化け物の食い扶持だな。……あるいは、重装歩兵の維持費か」
沈黙が、重く部屋を支配した。
趙累の顔から、穏やかな仮面が剥がれ落ちていく。
その目が、事務屋を殺すための「選別者」の目へと変わる。
「……数字は、時に残酷な真実を暴くな。峻」
趙累の手が、机の下へと伸びた。
その瞬間、郭嘉の短刀が机に深々と突き刺さる。
「動くなよ、老いぼれ。俺の連れは数字の計算にはうるさいが、命の計算はまだ勉強中なんだ」
郭嘉は酒を一口煽り、趙累を睨みつけた。
「さあ、吐いてもらおうか。……曹操様の食事に、何を混ぜた?
そして、その『鋼の私兵』を動かしている本当の主は、誰だ」
趙累は、力なく笑った。
「……遅い。すでに計算は終わっている」
その言葉が終わるより早く、外で巨大な地響きが鳴り響いた。
夜の静寂を切り裂く、鉄のぶつかり合う音。
峻は、手にした帳簿を強く握りしめた。
「……選別は、もう終わっていたということか」
本営の奥深く。
曹操の寝所へ向かって、静かなる「鋼の軍勢」が動き始めた。




