第三十九話 想定外の変数
燃え上がる補給所から離れ、峻は暗闇を駆けていた。
背後では、鐘の音と兵たちの怒号が遠ざかっていく。
肺が焼けるように熱い。
だが、峻の頭は冷徹に次の「計算」を弾き出していた。
曹操。盧景。韓恢。
この軍の中枢は、すでに「選別」という名の陰謀に侵食されている。
正攻法で誰かに報告したところで、その相手が敵ではないという保証はどこにもなかった。
(……だから、あいつだ)
峻が向かったのは、華やかな中心地ではない。
本営の端、酒の匂いと無造作に積み上げられた地図が散乱する一角。
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「……なんだ、火事見舞いか?」
天幕の奥で、気だるげに声を上げた男がいた。
郭嘉。
曹操が最も信頼を置く軍師であり、同時に、この軍で最も「規律」から遠い場所にいる男だ。
峻は肩で息をしながら、焼け残った一冊の帳簿を机に叩きつけた。
「郭嘉殿……。これを見て、計算していただきたい」
郭嘉は面倒そうに片目を開け、卓上の酒を煽った。
だが、峻が差し出した帳簿の、焼け焦げた表紙を見た瞬間。
その瞳の奥に、鋭い光が宿る。
「……張温の区画から消えたはずの『原簿』か。死地からこれを持ってくるとはな、事務屋」
郭嘉は細い指で、パラパラとページをめくった。
峻が指摘するまでもなく、彼は数秒でその「欠落」の正体を見抜いていく。
「なるほどな。秣を金に変え、武具を買い、その武具を『第五輜重隊』へ流す」
「……だが峻、これだけでは足りないぞ。これでは単なる『横領の証拠』だ」
峻は頷き、懐からもう一枚の紙――曹操から渡された配置図を取り出した。
「これと照らし合わせてください」
「曹操様は、軍の中に『別の軍』がいると仰った」
「だが、私の計算では、その規模は一隊や二隊ではない」
郭嘉の手が止まる。
峻は、火災の中で確信した結論を口にした。
「第五輜重隊は『囮』です」
「彼らが派手に怪我をし、派手に薬草を消費していたのは、
我々の目をそこに引きつけるためだ。
……本当の『私兵』は、もっと別の場所に、もっと静かに潜んでいます」
郭嘉は、散乱した地図の上に帳簿を広げた。
「……面白い。続けてみろ」
「帳簿上の数字が完璧に整っている場所……
つまり、私が『損耗ゼロ』として張温を裁いた、あの場所です。
張温は確かに横流しをしていましたが、彼は利用されていたに過ぎない」
峻の指が、地図上のある一点を指した。
「本当に『削られ』、置き換えられているのは、
曹操様の近衛部隊……その『糧食担当』です」
郭嘉の顔から、完全に笑みが消えた。
「……近衛か。つまり、曹操様の食事と、寝所の守りを握っている奴らか」
「はい。彼らは一切のミスを犯さない。
数字が静かすぎるんです。
……それは、すでに中身が『選別』され、入れ替わっている証拠だ」
曹操が「軍の目」として峻を放ったのは、自分自身の喉元に突きつけられた刃を見つけさせるためだった。
郭嘉は椅子に深く寄りかかり、天を仰いだ。
「……峻。お前、自分が何を言っているか分かっているか?
相手は、この軍の半分を動かせる巨大な影だぞ」
「計算に、相手の大きさは関係ありません」
峻は、真っ直ぐに軍師を見つめた。
「合わない数字があれば、正す。それだけです」
郭嘉はしばらく沈黙した後、クスクスと笑い始めた。
それは韓恢の冷たい笑いとも、盧景の不気味な笑いとも違う、愉快で、狂気に満ちた笑いだった。
「いいだろう、事務屋。その『計算』、俺が乗ってやる。……ただし、ここから先は算盤じゃなく、命を叩きつけることになるぞ」
郭嘉が立ち上がった。
その手には、曹操への上奏文ではなく、一本の鋭い短刀が握られていた。
「まずは、その『静かすぎる帳簿』を作った奴を、引きずり出しに行こうか」




