第三十八話 算盤(そろばん)の火
闇に沈んだ補給所の中で、峻の視界は盧景のまとう黒い外套に吸い込まれるようだった。
周囲を取り囲む影たちは、息遣いすら殺している。
これほどまでに統制された「私兵」が、曹操の足元で、帳簿の数字に隠れて増殖していた事実に、峻は改めて戦慄した。
盧景は優雅な所作で、峻の机の上にある帳簿を指先でなぞった。
「薬草の消費量から、第五輜重隊の正体――『重歩兵大隊』の存在に辿り着くとは」
「峻、君の計算能力はもはや呪いだ」
「正直に言えば、私の懐に招き入れたいほどだよ」
「……誘いなら、以前断ったはずだ」
峻は筆を握りしめたまま、背後にある出口までの距離を測る。
しかし、そこには逃げ場などないことを彼の脳が冷徹に計算していた。
「以前は君を試した。だが今は違う。君はあまりに多くを知りすぎた」
盧景の声から温度が消える。
彼が軽く手を上げると、影たちが一歩、その距離を詰めた。
抜刀の音はない。
おそらく、音を立てずに絞め殺し、すべてを「事故」として処理するつもりなのだろう。
帳簿の数字を書き換えるように、一人の人間の存在を消す。
それが彼らのやり方だ。
しかし、峻は微かに笑った。
その笑みは、絶望ゆえのものではない。
「盧景、貴様は計算を一つ間違えている」
「ほう? 命を握られたこの状況で、何の計算だね」
「時間だ」
峻は懐から一束の紙を取り出し、机の上の油灯へと投げ込んだ。
それは彼が夜通し書き溜めていた、自分だけの「裏帳簿」の一部。
第五輜重隊の正体と、韓恢の署名が入った備品台帳の矛盾を克明に記した記録だった。
火は一瞬で燃え上がり、暗闇を赤く染め上げた。
「狂ったか! 証拠を自ら焼いてどうする!」
盧景が声を荒らげる。
だが、峻の狙いは証拠の破棄ではない。
「ここは補給所だ。引火性の高い油も、乾燥した木簡も山ほどある」
「そして、この時刻に火の手が上がれば、真っ先に駆けつけるのは誰か分かるか?」
峻は燃え盛る机を盾に、盧景を睨みつけた。
「警備部隊ではない。火災による『備品の損失』を恐れる、曹操様直属の会計監査官たちだ」
「彼らは私の息がかかった部下ではないが、数字の欠落には貴様ら以上に敏感だ」
「彼らがここに来れば、貴様らのような『帳簿に載っていない兵』は、存在そのものが矛盾になる」
その言葉を裏付けるように、遠くで鐘の音が鳴り響いた。
火災を知らせる急報だ。
峻は、火の粉が舞う中、隣の棚にあった大量の白紙を火の中に放り込んだ。
煙が部屋中に立ち込め、視界が白く塗りつぶされる。
「盧景、貴様は『下から上を選ぶ』と言った」
「だが、数字は常に平等だ」
「偽造された数字は、真実の光に触れた瞬間に灰になる」
「……退け!」
盧景は苦々しく吐き捨て、影たちに撤退を命じた。
ここで曹操の直属部隊と鉢合わせ、正体を露呈させるわけにはいかない。
それは彼らにとって、計画の全貌を失うことと同義だった。
黒い影たちが煙の中に消えていくのと入れ替わりに、外から大勢の足音が近づいてくる。
峻は熱風に顔を焼かれながら、焼け残った一冊の帳簿だけを抱えて、裏口の窓から外へと転び出た。
冷たい地面に突っ伏し、激しく咳き込む。
肺が焼けるように痛むが、手の中にある重みだけは離さなかった。
それは張温の区画から消え、峻が密かに回収していた「本物の武具の流出先」を記した血塗られた原簿だった。
「……まだ、終わらせない」
峻は立ち上がり、燃える補給所を背に、闇の中を走り出した。
向かう先は、韓恢の部屋でも、曹操の幕舎でもない。
この軍の中で、唯一「計算」が通用しない、あの男の元へ。




