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曹操軍の雑務係、気づけば天下統一に貢献していました  作者: 水原伊織


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第三十七話 帳簿の空白

曹操の幕舎を出た峻を待っていたのは、冷たい夜気と、それ以上に冷ややかな韓恢の視線だった。


「曹操様は何と?」


韓恢は薄暗い松明の光の中で、影のように立っていた。


その問いは日常の確認を装っているが、峻には分かる。


これは獲物の「口封じ」が必要かどうかを測る、最後の一線だ。


「……更なる選別を命じられました」


峻は、懐にある曹操から与えられた配置図の重みを感じながら、あえて平坦な声で答えた。


「私の『目』が、韓恢殿の期待に応えていると評価されたようです」


韓恢の口角がわずかに吊り上がる。

「そうか。ならば、お前にはもっと『深い場所』を見てもらわねばな」


韓恢はそう言い残すと、背を向けて闇へと消えた。その足取りには、隠しきれない優越感と、何者かへの絶対的な忠誠が滲んでいた。


(……韓恢ではない。彼を動かしている『上』が、この軍のどこかにいる)


峻は自室へは戻らず、深夜の補給所へと向かった。

選別者としての権限を得た今、深夜の出入りを咎める者はいない。


峻が探しているのは、一つの「矛盾」だった。


まぐさを資金に変え、武具を買う。そこまでは分かった。だが、最新の武具を配備された『別の軍』が実在するなら、必ずどこかにその痕跡が出る)


峻は、全軍の「負傷者数」と「薬草の消費量」の記録を引っ張り出した。

武具や兵糧の記録は、韓恢たちが徹底的に改竄しているはずだ。ならば、彼らが「改竄する価値もない」と思い込んでいる、些細な数字のズレを突くしかない。


(戦は起きていない。だが、厳しい練兵を行えば、必ず負傷者が出る。そして、最新の武具を扱う訓練なら、特有の怪我が発生するはずだ)


峻の指が、膨大な木簡の中の一点を止めた。


「……あった」


ある特定の部隊――表向きは後方の警備を任されている「第五輜重隊」。

その薬草消費量が、他部隊に比べて三倍以上多い。特に「打ち身」と「切創」の薬だ。


「後方の警備部隊が、これほどの怪我を負う理由がない。それも、特定の高価な止血剤ばかりを使っている……」


峻はその部隊の「備品台帳」を照らし合わせた。

そこには何の変哲もない、使い古された槍と盾の数が記されている。


だが、峻の目は騙されない。


(この部隊の食事の質だ。……肉の消費量と、炭の配分。これほどの高カロリーな食事は、重装騎兵、あるいは全身を鋼で覆った『重歩兵』のものでなければ、数字の辻褄が合わない)


「第五輜重隊」という偽りの名の裏に隠された、曹操の喉元を狙う私兵集団。

その実態を掴みかけたその時、背後で微かな衣擦れの音がした。


「……数字の鬼だな、君は」


聞き覚えのある、穏やかでいて、底知れぬ恐怖を感じさせる声。


峻が振り返ると、そこには盧景ろけいが立っていた。

商人の服ではない。軍の将官が纏う、深い漆黒の外套に身を包んでいる。


「盧景……。いや、貴殿も軍の関係者だったというわけか」


盧景は優雅に歩み寄り、峻が広げている帳簿を覗き込んだ。


「君が求めている『答え』は、その帳簿の中にはないよ。峻。君が見つけたのは、ただの『影』に過ぎない」


盧景は峻の耳元で、冷たく囁いた。


「『本当の帳簿』は、君のすぐ後ろにある。……いや、君をここに送り込んだ男の懐にあると言えば、理解できるかな?」


峻の思考が、一瞬だけ白濁した。

(私をここに送り込んだ男……曹操様?)


「選別とは、常に上から下へ行われるものだと思っているのかい?」


盧景の笑みが深まる。


「逆だよ。下から上を『選ぶ』ことだってできる。……誰がこの乱世の真の支配者に相応しいか。我々は、そのための『計算』を終えたところだ」


盧景が手をかざすと、補給所の周囲を、音もなく黒い影たちが取り囲んだ。

松明の火が消え、暗闇が峻を包み込む。


(逃げ場はない。だが……)


峻は暗闇の中で、静かに筆を握り直した。


数字が導き出した真実は、まだ終わっていない。


「……選ぶのは、貴様らではない」


峻の声が、暗闇に響いた。


「数字が決めるんだ。誰が、この舞台から退場すべきかを」

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