第三十六話 深淵の再会
幕舎の中は、
外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
立ち込める香の匂い。
その奥に、一人の男が座っている。
曹操。
彼は筆を置き、顔を上げた。
その眼光は以前にも増して鋭く、
峻の足元から喉元までを、
まるで帳簿の余白を精査するように見つめた。
「……面を上げよ、峻」
「はっ」
峻は膝をつき、静かに頭を上げた。
以前、
ここで密命を受けた時とは、
自分の中の「重心」が違う。
恐怖がないわけではない。
だが、今の峻には、
恐怖を数字に置き換えて処理する、
冷徹さが備わっていた。
曹操は傍らに置かれた、
一束の竹簡を指差した。
「補給部で一人の小役人が、
処断されたと聞いた。
横流しの罪。
……お前が選別したそうだな」
「左様です」
「なぜ斬った。
報告して、私の裁きを、
待つこともできたはずだ」
試すような問い。
峻は、淀みなく答えた。
「数字の歪みを放置すれば、
軍という巨大な計算式全体が崩壊します。
あの場での即時排除は、
誤差を最小限に抑えるための、
『最適解』でした
曹操様が私に求めたのは、
単なる報告ではなく、
『軍の目』としての、
自律的な機能ではないのですか」
曹操の口元が、わずかに歪んだ。
笑みか、あるいは別の感情か。
「自律、か。面白い。
事務屋がいつの間にか、
執行官の顔をしている」
曹操は立ち上がり、
ゆっくりと峻に近づいた。
「だが、お前が見ているのは、
まだ表層の数字に過ぎん。
韓恢という駒が動かす、浅い池の波紋だ」
峻の心臓が、一度だけ強く打った。
(……やはり、
このお方はすべてを識っている)
「お教えください」
峻はあえて、踏み込んだ。
「韓恢の背後にある、本当の『欠落』を」
曹操は峻の目の前で足を止め、
声を落とした。
「峻。お前は『秣』の、
架空計上を見抜いた。
さらに、金が盧景へ流れ、
武具に化けていることも。
だが、その武具が、
『どこへ』消えているかは、
まだ計算できていないはずだ」
峻は思考を加速させる。
盧景の商隊。
軍用刻印の武具。
韓恢の選別。
消えた武具は、
曹操軍を裏切る勢力に渡っているはずだ。
だが、それだけなら曹操は、
これほど静かではないはず。
「……まさか」
峻の指先が微かに震える。
「軍の外へ出ているのではない……
軍の『中』に留まっているのですか」
曹操は答えず、
代わりに一枚の書状を峻に投げ与えた。
そこには、
峻がまだ触れることを許されていない、
最前線の兵力配置図が記されていた。
「補給を操作し、特定の部隊だけを、
『最新の武具』と『過剰な兵糧』で、
武装させる。
……それはもはや横流しではない。
軍の中に、私に従わぬ、
『別の軍』を育てているということだ」
峻は息を呑んだ。
これまでのパズルが、最悪の形で完成する。
韓恢たちが「削り」、選別し、
残った「選ばれた者たち」による、
曹操の喉元を狙うための私兵集団。
「お前に最後の仕事を与える」
曹操の冷たい手が、峻の肩に置かれた。
「その『別の軍』の台帳を見つけ出せ。
誰が兵を率い、誰が資金を出し、
誰がその頂点に座しているのか。
その名前を突き止め、
私の前にその帳簿を差し出せ」
「それが叶わぬ時は?」
「お前もまた、
軍の不純物として『選別』される。
それだけだ」
曹操は背を向け、再び机へと戻った。
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幕舎を出た峻の目に、
夕焼けが突き刺さるように赤く映った。
本営の影が、
巨大な怪物の足跡のように、
地面を覆っている。
(選ぶ側の戦い、か)
峻は懐の帳に、
震える手で新たな問いを刻んだ。
――敵の総数は、私の計算を越えている。
だが、止まることはできない。
峻は、自分を監視する、
韓恢の視線を感じながら、
再び数字の地獄へと歩み出した。




