第三十五話 欠落の証明
朝の光が、補給所の床に歪んだ影を落としていた。
峻は、消えた帳簿の棚の前に立っている。
昨日、張温を排除した場所だ。
「……何を見ている」
背後から韓恢の声。
苛立ちを隠していない。
当然だ。
選別の直後に“証拠”が消えた。
管理側への、露骨な挑発。
峻は振り返らない。
「消えたのは、張温の分だけではありません」
沈黙。
一歩、近づく気配。
「何だと?」
峻は棚に指を置いた。
「ここに、もう一冊あった」
指先で埃をなぞる。
「重さ三斤ほど。厚手の竹紙」
「……なぜ分かる」
峻は淡々と答えた。
「数字が消える時、周囲も歪む」
その瞬間。
空気が変わった。
韓恢の気配が、わずかに“硬く”なる。
峻は続ける。
「張温の帳簿は完成品だ。だが消えたもう一冊は違う」
一拍。
「過程の記録――本物の流れが書かれていた」
沈黙。
「誰が持ち出した」
低い声。
「昨夜の当番は全員吐かせた。誰も見ていない」
「当然です」
峻はようやく振り返る。
韓恢の目を、正面から見る。
「外の人間ではない」
「……」
「そして、隠したわけでもない」
韓恢の眉が動く。
「どういう意味だ」
峻は一歩、机へ戻る。
新しい帳簿を開いた。
「消えた帳簿は、“消すため”に使われた」
筆先が止まる。
「数字を、別の帳簿へ移すために」
韓恢の視線が、峻の手元へ落ちる。
峻は一行を指差した。
「馬の秣。二割増」
「妥当だ」
即答。
「連日の強行軍だ」
「ですが――」
峻の声が、わずかに低くなる。
「馬は増えていない」
一拍。
「糞の量も、荷車の損耗も変わらない」
静寂。
「つまり」
筆が、紙に触れる。
「この二割は存在しない」
黒く、塗り潰す。
その音だけが響く。
「この架空の秣で軍金が動く」
「その金で、武具を買う」
顔を上げる。
「盧景の商隊から」
――その瞬間。
韓恢の手が、剣に触れた。
ほんのわずか。
だが、確実に。
峻の背筋に、冷たいものが走る。
(来るか)
だが峻は止まらない。
「これが、選別の裏にある“本当の流れ”です」
沈黙。
長い。
重い。
やがて――
韓恢が笑った。
低く、乾いた笑い。
「……面白い」
一歩、近づく。
「たった一晩で、ここまで辿り着くか」
剣から手が離れる。
だが、警戒は消えない。
「で?」
視線が鋭くなる。
「お前は、どっちだ」
峻は瞬き一つしなかった。
「……殺しますか。それとも、使いますか」
間。
韓恢は、峻の肩を掴んだ。
強く。
「使う」
低い声。
「お前ほどの“目”を潰すのは、割に合わん」
その時。
廊下から足音。
急ぐ気配。
「峻殿! 曹操様がお呼びです!」
空気が、また変わる。
韓恢の手が、わずかに離れる。
峻は帳簿を閉じた。
「……続きは後で」
韓恢の横を通り抜ける。
光の方へ。
(このタイミングで呼ぶか)
偶然ではない。
見られている。
峻は懐に触れた。
裏帳簿。
そこにある、まだ出していない一行。
――主犯は、韓恢ではない。
幕舎が見える。
峻は、迷わず幕を上げた。
韓恢は剣を抜かなかった。
代わりに、峻の肩を強く掴んだ。
「使うさ。お前ほどの『目』を殺すのは、数字が合わなすぎる」
その時、廊下から急ぎ足の響きが聞こえた。
郭嘉の使いだ。
「峻殿! 曹操様がお呼びです。至急、奥の幕舎へ!」
韓恢の顔から笑みが消えた。
峻は、静かに帳簿を閉じた。
「……選別の続きは、後ほど」
峻は韓恢の横を通り抜け、光の射す出口へと向かった。
(曹操様が、このタイミングで)
偶然ではない。
軍の目は、すでに峻の変質を見抜いている。
峻は懐の中の「裏帳簿」に触れた。
そこには、まだ誰にも言っていない、最後の一行が記されている。
――主犯は、韓恢ではない。
では、誰か。
峻は、曹操が待つ幕舎の幕を、迷いなく跳ね上げた。




