第三十二話 裏切りの名
夜は、静かすぎた。
音がない。
風もない。
まるで――
(待っている)
峻は歩いていた。
本営の外れ。
人気のない補給路。
指定された場所。
「今夜だ」
その言葉の意味は、もう分かっている。
(来る)
いや。
(来させられている)
足を止める。
闇の中。
何も見えない。
だが。
(いる)
気配は、確かにあった。
「遅いな」
声。
背後。
振り向かない。
「時間通りだ」
峻は答える。
足音。
一つ。
近づく。
止まる。
「いい」
あの声だ。
影の男。
“選別者”。
「来たということは」
低く。
淡々と。
「理解したか」
峻はゆっくりと息を吐いた。
「……ある程度は」
正直に言う。
完全ではない。
だが。
「帳簿は偽装だ」
影が続ける。
「見せるための」
(やはり)
「本物は別にある」
峻は沈黙した。
予想通り。
だが。
(どこだ)
それが問題だ。
「探せ」
短い命令。
「見つけた者だけが――残る」
選別。
やはり、それが本質。
峻は口を開いた。
「あなたは何者だ」
影が止まる。
一拍。
そして。
「知る必要はない」
同じ答え。
だが。
今回は違う。
峻は一歩、踏み込んだ。
「では、これは誰の命令だ」
沈黙。
空気が変わる。
(触れた)
核心に。
影が、ゆっくりと振り返る気配。
顔は見えない。
だが。
「……そこまで来たか」
低く。
わずかに、楽しむような響き。
「いいだろう」
その一言。
空気が、張り詰める。
「一つだけ教えてやる」
影が近づく。
距離が詰まる。
「これは――戦だ」
峻は動かない。
「外の敵ではない」
一歩。
さらに近い。
「内の戦だ」
理解はしていた。
だが。
言葉にされると、重さが違う。
「補給を握る者が」
影が続ける。
「軍を握る」
当然の理屈。
だが今は――
意味が違う。
「だから」
一瞬の間。
「削る」
短い。
だが。
十分すぎる答え。
(粛清)
峻の中で、言葉が形になる。
不要な者を。
危険な者を。
そして。
(選ぶ)
使える者を。
「お前は」
影が言う。
「どちらだ」
問い。
だが選択ではない。
試験。
峻は答えない。
代わりに。
「あなたは」
静かに言う。
「削る側か」
影が笑う。
小さく。
「そうだ」
あっさりと。
肯定。
(……やはり)
確信。
だが。
(それだけじゃない)
峻はさらに踏み込む。
「では」
一歩。
距離を詰める。
「韓恢は?」
空気が、止まる。
完全な静止。
一瞬。
だが。
確実に。
(当たった)
影が、ゆっくりと息を吐いた。
「いい線だ」
否定しない。
それが答え。
「だが」
続ける。
「それだけでは足りない」
やはり。
(上がいる)
峻の思考が繋がる。
「本物を見つけろ」
影が言う。
「帳簿の裏にあるものを」
そして。
「それが見えた時」
一歩、下がる。
距離が戻る。
「お前は選ぶ側に立つ」
幕のように、闇が揺れる。
「それまでは――」
声が低くなる。
「ただの駒だ」
言い切る。
冷酷に。
その時。
別の足音。
複数。
峻の視線が動く。
(……来た)
影の男は動かない。
「時間だ」
短く言う。
次の瞬間。
松明の光が、闇を裂いた。
「いたぞ!」
兵の声。
包囲。
完全に。
峻は目を細める。
(罠か)
いや。
(違う)
これは――
「よくやったな」
声。
前方。
光の中から現れたのは。
韓恢だった。
笑っている。
はっきりと。
「ここまで来るとは思わなかった」
兵が囲む。
逃げ場はない。
峻は動かない。
「……なるほど」
静かに言う。
「こういう形か」
韓恢は頷く。
「分かるか?」
試すような目。
峻は答える。
「俺を試した」
一拍。
「そして、ここで切るつもりだった」
韓恢の笑みが深くなる。
「半分正解だ」
一歩、近づく。
「切るかどうかは――」
視線が鋭くなる。
「今、決める」
選別。
最終段階。
峻は影の男を見る。
だが。
(いない)
消えている。
いつの間にか。
完全に。
(……逃がしたか)
いや。
(最初から、そういう役だ)
峻は韓恢に視線を戻す。
「なら」
静かに言う。
「もう答えは出てるはずだ」
韓恢が止まる。
「ほう?」
興味。
峻は一歩、前に出た。
兵がざわつく。
だが止まらない。
「俺はここにいる」
それが答え。
逃げない。
隠さない。
「帳簿も見た」
さらに踏み込む。
「偽装も見抜いた」
空気が張り詰める。
「それでも」
峻は言う。
「まだ足りないんだろう?」
沈黙。
数秒。
長い。
やがて。
韓恢が、笑った。
「……いい」
小さく。
だが確かに。
「いいな」
兵たちがざわめく。
空気が変わる。
「合格だ」
その一言。
すべてが変わる。
包囲が、わずかに緩む。
「今日からお前は」
韓恢が言う。
「“選ぶ側”だ」
確定。
だが。
峻は動かない。
「一つ聞く」
静かに。
韓恢を見る。
「上は誰だ」
核心。
韓恢は笑う。
今までで一番、深く。
「それを知るのは」
一歩、近づく。
耳元で。
「まだ早い」
低く。
囁く。
そして。
離れる。
「だが」
振り返る。
「すぐだ」
その一言。
夜が、さらに深くなる。
峻はその場に立っていた。
兵は去る。
韓恢も。
闇だけが残る。
(選ぶ側)
言葉が重い。
だが。
(終わっていない)
むしろ。
(始まった)
峻はゆっくりと空を見上げた。
星は見えない。
雲が覆っている。
(上)
その存在。
まだ見えない。
だが。
(いる)
確実に。
すべてを動かしている何か。
峻は目を閉じた。
そして。
小さく呟く。
「……暴いてやる」
誰に向けた言葉でもない。
だが。
確かに。
戦いは、次の段階へ進んでいた。




