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曹操軍の雑務係、気づけば天下統一に貢献していました  作者: 水原伊織


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第三十一話 踏み込む影

夜は、同じ時刻に訪れた。


静けさ。

張り付くような空気。


峻は座っていた。

油灯の火が、小さく揺れる。


(来る)


確信があった。

昨日と同じ。


だが――


(今日は、違う)


待つ側ではない。


峻は、筆を置いた。


わずかに姿勢を崩す。

無防備に見える角度。


誘い。

罠。


----


足音。


一つ。


止まる。


幕の外。


(……そこだ)


沈黙。


数拍。


やがて――


「起きているな」


低い声。


初めて聞く声だった。


峻は目を閉じたまま、答えない。


「……やはりな」


わずかな気配。


幕が開く。


影が入る。


足音は、ない。


昨日と同じ動き。


だが。


(近い)


距離を詰めてくる。


一直線に。


峻の前まで。


止まる。


「帳簿を触ったな」


断定。


探りではない。


峻はゆっくりと目を開けた。


影を見る。


逆光で、顔は見えない。


だが。


(こいつだ)


昨夜の侵入者。


確信。


「……何の話でしょう」


峻は淡々と返す。


影が、わずかに笑った気配。


「とぼけるな」


一歩、近づく。


距離が消える。


圧がかかる。


「三枚目だ」


背筋が冷える。


(やはり、見ていた)


峻は視線を逸らさない。


「それが?」


あえて、踏み込む。


影が、わずかに首を傾げた。


「気づいている」


確信の声。


「そして、動いた」


肯定も否定も、許されない位置。


峻は一瞬だけ沈黙した。


そして。


「あなたは?」


問いを返す。


影が止まる。


空気が変わる。


(踏み込んだ)


ここが境界。


越えれば――戻れない。


だが。


(もう戻らない)


影が、ゆっくりと息を吐いた。


「名は、いらない」


予想通り。


だが。


「役割だけ覚えろ」


低く。


はっきりと。


「選ぶ側だ」


その一言。


空気が凍る。


(選別者)


峻の中で、何かが繋がる。


帳簿。


改竄。


監視。


すべてが一本になる。


「なら」


峻は言う。


静かに。


「俺は、選ばれる側ですか」


影が笑う。


今度ははっきりと。


「違うな」


一歩、引く。


「お前は――試す側だ」


予想外の言葉。


(……何だと)


思考が一瞬、止まる。


影が続ける。


「だから、ここにいる」


理屈が逆転する。


峻は目を細めた。


(利用されている)


監視ではない。


誘導。


自分の行動すら――


「気に入らない顔だな」


影が言う。


峻は答えない。


「だが、それでいい」


影が踵を返す。


「動け」


命令。


短く。


重い。


「次の帳簿を見ろ」


足音が一歩。


「そこに“答え”がある」


幕へ向かう。


「見つけられなければ」


止まる。


振り返らないまま。


「そこで終わりだ」


幕が開く。


夜の気配が流れ込む。


そして。


影は消えた。


---


静寂。


峻は動かない。


数秒。


呼吸を整える。


(……試す側)


言葉が残る。


理解が追いつかない。


だが。


(分かる)


これは。


(選別の段階を越えている)


もう、観察ではない。


実行。


ふるい落とし。


そして。


(利用)


峻は立ち上がった。


机へ向かう。


帳を開く。


自分の記録。


そこに、新たに書き加える。


――接触あり。


――内部に“選別者”存在。


――指示系統、不明。


筆が止まる。


(韓恢)


名前が浮かぶ。


あの視線。


あの言葉。


あの“軽さ”。


(繋がるか?)


だが。


(違う)


完全には一致しない。


韓恢は“表”だ。


なら。


(裏がいる)


峻は帳を閉じた。


(次の帳簿)


罠だ。


間違いない。


だが。


(行く)


行かなければ終わる。


選択肢はない。


---


翌朝。


空は白み始めていた。


峻はすでに補給所にいた。


人は少ない。


動き出す前の時間。


(ここだ)


新しい帳簿。


積まれている。


峻は一冊を手に取る。


開く。


ページをめくる。


数字。


配置。


流れ。


(……ある)


違和感。


昨日より、露骨。


まるで。


(導いている)


ここを見ろ、と。


峻は指を止める。


一行。


そこだけが。


明らかに――不自然。


(これが“答え”か)


だが。


(浅い)


これでは足りない。


何かが、隠れている。


峻はページを戻す。


前の頁。


さらに前。


流れを見る。


繋がりを見る。


(……そうか)


気づく。


遅れて。


だが確実に。


(逆だ)


この帳簿。


“隠している”のではない。


(見せている)


しかも。


(わざと、間違えている)


本当の流れを、覆うために。


偽の不自然。


偽の違和感。


その裏に。


(本物がある)


峻の指が、止まる。


別の行。


目立たない。


だが。


(ここだ)


何もおかしくない。


だからこそ。


(おかしい)


完璧すぎる。


揃いすぎている。


人が触った形跡が、ない。


(消されている)


痕跡ごと。


峻は息を吐いた。


(見つけた)


だがその瞬間。


背後から声。


「やはり、そこか」


振り向く。


韓恢だった。


笑っている。


だが目は笑っていない。


「面白い」


一歩、近づく。


「そこに気づくか」


確信。


隠していない。


「……最初から見ていたんですか」


峻が問う。


韓恢は肩をすくめる。


「さあな」


否定しない。


それが答え。


「なら」


峻は言う。


静かに。


「あなたは、どちら側ですか」


沈黙。


一瞬。


だが重い。


韓恢の笑みが、消えた。


「さてな」


低く。


「それを決めるのは――お前だ」


空気が張り詰める。


「選ばれるか」


さらに一歩。


距離が消える。


「選ぶか」


視線が刺さる。


逃げ場はない。


峻は答えない。


ただ見返す。


韓恢が、ふっと笑った。


「いい目だ」


踵を返す。


「今夜だ」


それだけ言って。


去っていく。


---


峻は動かない。


帳簿を見つめたまま。


(今夜)


すべてが動く。


確信。


(選ぶか、選ばれるか)


境界線。


もう曖昧ではない。


峻はゆっくりと帳簿を閉じた。


(いいだろう)


覚悟はできている。


踏み込む。


その先へ。


油灯の火が揺れる。


影が、深くなる。


その中で。


峻は、初めて――


自分の意志で、闇に足を踏み入れた。


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