第三十話 偽りの帳簿
朝は、いつも通りに始まった。
兵は動き、声が飛び交い、鍋の湯気が立つ。
だが、変わらなかった。
空気の底にあるもの。
見えない圧。
峻は帳簿を抱え、本営の補給所へ向かっていた。
顔は平静。
足取りも一定。
だが頭の中は、昨夜の出来事で埋まっている。
(試されている)
誰かが。
こちらを。
しかも一人ではない。
(なら、利用する)
峻は歩きながら、帳簿の一部を思い出す。
数字。
物資。
輸送経路。
そして――
(ズレ)
ほんのわずかな誤差。
普通なら見逃す程度の。
だが。
(意図的だ)
誰かが、帳簿を“歪めている”。
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補給所はすでに動いていた。
兵が荷を運び、書記が筆を走らせる。
峻はその中に紛れ込む。
「帳簿の確認だ」
短く告げる。
誰も止めない。
雑務係の特権。
誰も気にしない。
だからこそ――
(見える)
峻は一冊を手に取る。
開く。
米。
塩。
矢。
数字を追う。
指でなぞる。
(ここだ)
昨日と同じ箇所。
同じ違和感。
だが。
(増えている)
誤差が、広がっている。
まるで。
(わざと見せている)
気づけ、と。
峻は静かに息を吐いた。
(乗るか)
罠に。
あえて。
峻は筆を取った。
帳簿の端。
目立たない場所。
ほんの一行。
数字を“ずらす”。
わずかに。
だが確実に。
(これでいい)
誰かが見れば、気づく。
そして――
(動く)
峻は帳簿を元に戻した。
何もなかったように。
昼。
陽は高くなっていた。
峻は外に出る。
視線を感じる。
一つではない。
二つ。
三つ。
(見ている)
だが振り向かない。
今はまだ。
「峻」
声。
振り返る。
韓恢だった。
昨日と同じ、薄い笑み。
「忙しそうだな」
「ええ、それなりに」
短い会話。
だが。
(来た)
韓恢の目が、峻を測る。
値踏みするように。
「帳簿は見たか?」
直球。
探りではない。
確認。
峻はわずかに首を傾げる。
「一通りは」
嘘ではない。
すべては言っていない。
韓恢は一歩近づく。
「違和感は?」
逃げ場のない問い。
峻は一瞬だけ考えるふりをした。
そして。
「多少は」
曖昧に答える。
韓恢の口元が、わずかに上がった。
(やはり)
知っている。
確信が一段、深くなる。
「そうか」
韓恢は頷く。
「なら、そのまま続けろ」
命令。
軽い口調で。
だが拒否はできない。
「分かりました」
峻は頭を下げる。
韓恢は踵を返す。
その瞬間。
小さく呟いた。
「――面白くなってきたな」
聞こえるか聞こえないかの声。
だが。
(わざとだ)
聞かせている。
夕刻。
峻は再び帳簿の前にいた。
朝、細工した箇所。
そこを見る。
(……変わっている)
数字が、戻されている。
正確に。
だが。
(違う)
別の場所が、ズレている。
まるで。
(応答だ)
こちらの動きに対する。
返答。
峻は目を細める。
(複数だ)
一人ではない。
帳簿を触れる者が、複数いる。
しかも。
(連携している)
完全に。
峻は筆を置いた。
考える。
(このまま追えば、いずれ辿り着く)
だが。
(その前に消される)
確信があった。
これは。
(遊びじゃない)
選別。
そして排除。
夜。
天幕に戻る。
昨日と同じ空気。
同じ影。
峻は座る。
油灯に火を入れる。
揺れる光。
その中で。
(もう一つ、必要だ)
証拠。
決定的な。
それがなければ。
(斬れない)
峻は筆を取る。
自分だけの帳。
開く。
そこに、新しく記す。
――帳簿改竄、複数犯。
――韓恢、関与の可能性高。
――だが“上”の存在あり。
筆が止まる。
(上)
誰だ。
韓恢より上。
補給を動かせる者。
そして。
(曹操の目を欺ける者)
一人しかいない。
だが。
(あり得るのか)
峻は目を閉じた。
考えを振り払う。
(まだ早い)
確証がない。
疑いだけでは――死ぬ。
その時。
幕の外で、足音。
止まる。
昨日と同じ位置。
(また来たか)
峻は動かない。
待つ。
だが。
今回は。
幕は開かれなかった。
代わりに。
小さな声。
「……次だ」
低く。
抑えた声。
誰のものかは分からない。
だが。
はっきりと。
峻に向けられていた。
足音が去る。
静寂。
峻はゆっくりと目を開けた。
(次)
それは何だ。
試験の続きか。
それとも――
(処分か)
油灯の火が揺れる。
影が歪む。
峻はその影を見つめる。
(もう戻れない)
踏み込んだ。
その先は。
引き返せない。
峻は静かに呟いた。
「……いいだろう」
覚悟。
それだけが残る。
(来い)
誰であろうと。
見抜く。
暴く。
そして――
(生き残る)
夜は、まだ終わらない。




