第二十九話 味方の影
夜は深かった。
本営の灯は消えきらない。
だが、その光が逆に影を濃くする。
峻は自分の天幕へ戻っていた。
足を止める。
(……静かすぎる)
物音がない。
気配が薄い。
だが――
(いる)
見られている感覚。
峻は何も気づかないふりをして、幕をくぐった。
中は変わらない。
簡素な寝台。
小さな机。
油灯。
だが。
(位置が違う)
机の角度。
紙の重なり。
ほんのわずか。
だが確実に――触られている。
峻は無言で座った。
油灯に火を入れる。
手は自然に動く。
視線は動かさない。
(誰が入った)
目的は何だ。
探られているのか。
それとも――
(置かれたか?)
峻は机の紙を一枚めくる。
何もない。
もう一枚。
何もない。
三枚目。
指が止まった。
(……ある)
紙の端。
ごく薄い刻印。
補給官の印。
だが。
(違う)
線が一本、多い。
偽装。
意図的な印。
峻はそれを元に戻した。
気づいていないふりをする。
(罠だ)
誰かが、試している。
峻は寝台に横になった。
目を閉じる。
呼吸を整える。
(動くな)
今は、動くな。
どれくらい経ったか。
幕の外で、足音が止まる。
一歩。
近い。
(来る)
峻は眠ったふりを続ける。
幕がわずかに揺れた。
人影。
油灯の光が歪む。
足音はない。
訓練された動き。
影が机に近づく。
紙に触れる。
一枚。
二枚。
三枚目。
(それだ)
わざと置かれた印。
影はそれを確かめるように指でなぞる。
そして。
小さく、息を吐いた。
(……確認した)
何を。
峻は考える。
(俺が気づくかどうか、ではない)
(“誰かが気づいたか”を見ている)
背筋が冷える。
単独ではない。
監視は複数。
役割分担。
影が動く。
今度は峻の方へ。
距離、一歩。
止まる。
(来るな)
心臓が強く打つ。
だが呼吸は乱さない。
影が屈む。
顔の高さまで近づく。
見られている。
じっと。
長く。
やがて――
影は離れた。
幕が揺れる。
足音は、消えた。
峻は目を開けた。
体を起こす。
汗が背を伝っている。
(今のは――)
確認。
試験。
そして。
(選別だ)
誰が“使えるか”。
誰が“気づくか”。
誰が“敵になるか”。
峻は机へ向かう。
紙を手に取る。
偽の印。
じっと見る。
(これは鍵だ)
追うべき糸。
だが。
(下手に動けば、こちらが露見する)
峻は紙を戻した。
元通りに。
何もなかったかのように。
その時。
幕の外から声。
「峻」
低い声。
聞き覚えがある。
峻は振り向く。
「入るぞ」
許可を待たず、幕が開いた。
現れたのは、韓恢だった。
薄く笑っている。
「無事だったか」
その一言。
だが。
(軽い)
生死を気にする声ではない。
峻は立ち上がる。
「ええ、なんとか」
韓恢は中を見渡す。
机。
紙。
油灯。
すべてを。
「何かあったか?」
何気ない問い。
だが視線は鋭い。
(探っている)
峻は一拍置いて答えた。
「特には」
嘘ではない。
事実も言っていない。
韓恢はゆっくり頷いた。
「そうか」
沈黙。
短いが、重い。
韓恢はふと笑った。
「気をつけろよ」
その言葉。
軽い。
だが。
「最近、物騒だ」
視線が一瞬だけ机に落ちた。
見逃さない。
(知っている)
確信。
韓恢は踵を返す。
「また呼ばれるだろう。覚悟しておけ」
幕を出ていく。
足音が遠ざかる。
峻は動かない。
しばらく、そのまま立っていた。
やがて。
小さく息を吐く。
(繋がった)
商隊。
盧景。
そして――本営。
点が線になる。
だが。
(まだ足りない)
証拠がない。
確信だけでは斬れない。
峻は油灯の火を見つめる。
揺れる光。
影が揺れる。
(敵は外だけじゃない)
むしろ。
(内側の方が深い)
峻はゆっくりと座った。
紙を一枚、引き寄せる。
筆を取る。
書き始める。
表向きの報告書。
そして――
(もう一つ)
誰にも見せない帳。
自分だけの記録。
数字。
配置。
違和感。
すべてを記す。
戦うために。
生き残るために。
そして。
(見抜くために)
誰が敵かを。
油灯の火が揺れる。
その影の中で。
峻の戦いは、静かに続いていた。




