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第十四章 騎士と天文台 / Le Chevalier et l'Observatoire

アリサが紡ぎ始めた世界の謎の一部が、パリ天文台で物理法則として明らかになる⋯

午前8時15分、フランス、パリ。


パリでの三日目の朝は、シスター・アニエスの絶叫から始まった⋯


「リリーがいません!私の部屋から!ああ、神様、聖母マリア様、ジャンヌ・ダルク様!」


廊下に響き渡る悲鳴⋯。しかし、その記憶は曖昧だった。


「昨夜はワインを少し…いえ、かなり⋯。あれっ、もしかして、今は一人で旅をしていたのでしたっけ⋯?いいえ、そんなはずは…」


シスターは、一瞬、現実逃避という行為を試みた。気持ちは、わかる⋯。が、聖職者である身、理性が現実世界に無情にも連れ返す⋯


その頃、アリサはホテルのカフェテリアで、リリーと一緒に朝食を楽しんでいた。リリーがクロワッサンにジャムを塗りたくるのを、微笑ましく見守っている。


ふと、フロントの方が何やら騒がしいことに気がつき、どうやら小さい女の子がいないようであるとの騒ぎを聞きつけ、アリサは直ぐに状況を理解した⋯


(しまった…!!シスターに書き置きしておくのを、すっかり忘れてた…!)


シスターが、ローランに「あなたは保護者でしょう!」と詰め寄り、ローランが「いや、僕の専門は中世史で…」と訳の分からない言い訳で応戦する、という一連の騒動が落ち着いた後、一行はようやくパリ天文台へと出発した。



天文台は、パリの喧騒が嘘のような、静かで緑豊かな一角にあった。


17世紀に建てられたという本館は、派手な装飾はないが、知性の殿堂としての威厳と、三百数十年の時を重ねた重みを感じさせる。コスモスによれば、この場所から惑星・海王星が発見され、世界で初めて光の速さが測定されたのだという。


アリサは、ニュートンやガリレオと同じ空気を吸っているような、不思議な高揚感を覚えた。



リリーとシスターは、子供向けのイベント「星座と宇宙の不思議」へと駆け出していった。ローランとアリサは、講演会が開かれる講堂へと向かう。


古い木の扉を開けると、中はすでに、フランス中から集まった天文好きの学生たちの熱気で満ちていた。


そう、今日は、イギリスが誇るジョドレルバンク天文台に属する電波天文学の世界的に有名な研究者が、ここパリ天文台に来たのだから。


人混みの中、アリサは昨夜のインド系紳士、サミール・カーン博士を見つけ、声をかけた。


「昨夜はありがとうございました、カーン博士」


「ああ、アリサ博士!来てくださったのですね」


ローランは少し気まずそうに自己紹介をすると、サミールはにこやかに握手を返した。


「ローラン博士、あなた方の昨夜の議論、本当に素晴らしかった。では、そろそろ始まりますので、ごゆっくり」


サミールはそう言うと、静かに演壇へと向かった。



「さてと⋯、コスモス君。今日のテーマは『人類の宇宙探索の未来とエントロピー』だそうだ。エントロピーねぇ…きっ、君は分かるかね?」


ローランの裏返った声での不安げな問いに、コスモスが全てを察知して、小さいボリュームで囁いた。


《仕方ない⋯騎士の情です。貴殿の窮地、お救いします。同時解説を開始します》


「誠にかたじけない⋯」


ローランは、どこかのサムライ映画で見たのであろうサムライっぽい言い方を真似てコスモスに礼を述べていた。



サミールの講演が始まる。

それは、まさに圧巻だった。


彼は、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が捉えた宇宙の始まりの光、日本の「はやぶさ2」が持ち帰った小惑星の砂、そしてスペースX社などが推し進める民間宇宙旅行の現状といった、宇宙開発の最先端を、学生たちにも分かりやすく、情熱的に語った。


「さて、皆に聞きたい」


サミールは会場に呼びかけた。


「君たちは、宇宙旅行に行きたいかい?」


「行きたい!」「お金がない!」「怖い!」


様々な声が飛ぶ。


「ありがとう。それこそが、今日の最初のテーマだ。」


サミールが続ける。


「もし、我々人類が、自由に宇宙へ進出するようになったら、宇宙は一体どうなるだろう?」


すると、一人の女子学生が手を挙げた。


「宇宙ゴミ、つまりスペースデブリの問題が、さらに深刻になります。いずれ、宇宙開発施設同士の事故や衝突が起きるかもしれません。何らかの秩序が必要ではないですか、博士?」


「素晴らしい!」


サミールはその言葉を待っていたかのように、力強く頷いた。


「君が今言ってくれた『秩序』の反対側にあるもの。それを科学の世界では『エントロピー』と呼ぶんだ」


サミールは、スクリーンに散らかった部屋の画像を映し出し、エントロピーの法則を解説し始めた。


「物事は、放っておくと必ず、整った状態から、ごちゃごちゃの状態へと向かう。この『ごちゃごちゃ度』がエントロピーだ。君たちが自分の部屋を片付けるにはエネルギーがいるだろう?秩序を作るには、その代償として、必ずどこか別の場所で、より大きな無秩序エントロピーを生み出してしまうんだ。例えば、自分の部屋にあったゴミは外に出すだろうし、いらない本を兄弟の部屋にそっと置いてしまったり⋯なんてね。他にも⋯⋯」


その説明は、昨夜コスモスがしてくれたものより分かりやすく、人間的な温かみがあった。


アリサが「…さすがね」と小声で呟くと、コスモスの画面の隅に、小さくしょげた顔文字が表示された。


「さて⋯」


サミールが続けた。


「熱力学第二法則は、我々の宇宙を支配する絶対的な法則だ。もちろん、ブラックホール情報パラドックスや、生命の起源といった、まだ説明しきれていない謎はある。だが、この法則は覆らない。だとしたら、これから我々が宇宙開発をし続け、宇宙ゴミというエントロピーをばらまき続けた時、その被害を受けるのは誰だろうね?」


「…宇宙人、ですかね?いるのか分かりませんけど」


別の学生が答えた。


「そう!いるのかいないのか分からないが、もしいるとしたら、だ。我々の宇宙ゴミのせいで、銀河の町内会でトラブルが起きるかもしれないね」


会場が笑いに包まれる。


「私もね、家で妻に『この部屋を散らかしたのは誰?』と怒られて、『エントロピー増大の法則が自然に成立しただけだよ』と答えたら、顔をひっぱたかれたことがある。宇宙の法則は、家庭では通用しないらしいね⋯」


それを聞いたローランが、激しく頷き同意する素振りを見せる。


(いっ⋯、一体なにがあったのよ、ローラン⋯)と、アリサはいつかそれとなく聞いてみようと、思った。


会場が和やかな空気に包まれる中、サミールの表情が、ふと真剣なものに変わった。


「ここで、君たちに二つの問いを投げかけたい。いいかね、一つ目だ。そう、宇宙ゴミは出る。知的生命体がいるなら、彼らもまたエントロピーを排出しているはずだ。それは、探査機の残骸かもしれないし、あるいは『侵略』という形かもしれない。だが、我々はそれを一度も観測したことがない。なぜ、この宇宙はこれほどまでに静かなのか? 私は天文学者として、この完璧すぎる静寂にこそ、何か大きな秘密があると信じて、今日も明日も、星を眺めている。これが、フェルミのパラドックスというものだよ。もしかしたら、私の生きている間に、その謎は分からないかもしれない。でも、きっと、この会場にいる君たちが、その意志と知的好奇心を継いでくれると信じているよ。」


「そして、二つ目。エントロピーの法則は、宇宙だけにあてはまるのかな?そうではないね。我々の社会にもある。豊かな国の秩序が保たれる、つまり低エントロピーを維持するために、開発途上国から資源を搾取し、そこに貧困や環境破壊という無秩序、つまり高エントロピーを押し付けているとしたら? 我々は、そのことにどう向き合うべきだろうか。宇宙の前に、まず我々の足元を見る必要があるのではないか、と⋯。きっと、君たちがこの2つの課題に取り組んでくれると信じて、今日の話を終わろう。どうもありがとう」


会場は、割れんばかりの拍手に包まれた。ローランも立ち上がり、ブラボーと叫んでいる。


しかし、アリサだけが、立ち上がれなかった。サミールの言葉が、彼女の中で、これまでの旅の全ての発見と結びつき、一つの巨大な絵を完成させていたからだ。


(陰陽のサイクルが織りなす人類の段階的統合と秩序の拡大とあらたな無秩序の始まり…それは、物理学のエントロピーの法則の、歴史という舞台での現れだったんだわ。そして、この静かな宇宙…!サミールも確信は無いだろうけれど、薄々気づいている。私と同じことに…!)


アリサは、後で必ずサミールと話さなければと、心を固めた。


しかし、(そう言えば⋯)と、ふとある異変に気づく。同じように驚嘆するであろうローランは、なぜそこまで驚いていないのか⋯立ち上がり拍手はしているものの⋯


アリサがそっと彼の顔を覗き込むと、直ぐに分かった⋯。彼は青ざめた顔で呟いた。


「…すまん、アリサ君。昨夜のワインがね…。それと朝のシスターとのバトルによる影響で⋯話の半分くらい、よく分からなかった…」


どうやら、彼のスタンディングオベーションは、見栄とプライドの産物だったらしい。アリサは意図せず、天文台にて生粋の騎士道の真髄を垣間見た気がした⋯


(騎士って、いろいろ大変なのね⋯)

この後のサミールとの対話に、アリサは驚きの未来を見出す⋯

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