第十五章 古いテーブルの記憶 / La mémoire d'une vieille table
パリ天文台において人類の未来探求が幕を開け始める⋯
午後5時10分、パリ天文台。
プラネタリウムからは、子供たちの歓声が聞こえてくる。シスターとリリーが、今頃「土星の輪っかは神様が作ったフラフープです!」などと叫んでいないことを、アリサは心から願っていた⋯
彼女の隣では、ローランが青ざめた顔でベンチに座っている。
「すまない、アリサ君…どうやら昨夜のワインが、まだ体内で革命を起こしているようだ…」
「無理しないでください、ローラン騎士」
(まだ格好つけられるくらいだから、何とか大丈夫そうね⋯)
アリサは、負傷した騎士を気遣うように、そっと水のペットボトルを渡した。
夕暮れの光が、パリ天文台の歴史あるドームを、優しいオレンジ色に染めていた。
そこに、シスターとリリーがはしゃぎながらやってきた。
「アリサお姉さん、すっごく楽しかったよ!シスターが、『土星の輪っかは神様が作ったフラフープです!』って言ったら、みんな大笑いしてた!」
(アハハ⋯、やっぱり!⋯ね)
講演を終えたサミールが、アリサとローランの元へ歩み寄ってくる。
「アリサ博士、今日はお越しいただきありがとうございました」
「いえ、博士の講演こそ、圧巻でした。もしよろしければ、もう少しだけ、お話を伺えませんか?」
アリサは騎士をシスターに預け、とりあえず元気がでるように介抱してあげてほしい旨を伝え、サミールと話を始めようとした。
すると、サミールの隣に、白髪をきれいに撫でつけた、穏やかな瞳の老紳士が一人立っていることに気がつく。
「はじめまして、アリサ博士。パリ天文台の台長を務めている、ジャン・ピエール・ラクロワです。サミール君から、あなたの素晴らしい仮説について少し聞きましたよ。ぜひ、この老いぼれの好奇心も、満たしてはくれませんかな?ファッハッハ!」
アリサは、目の前に立つ、ヨーロッパの天文学界を代表する二人の知性を前にして、少しだけ緊張した。しかし、彼女は自らが辿ってきた旅路と、その中で見出した確信を、彼らに伝えるべきだと感じていた。
「はい、ぜひ…!」
三人は天文台近くにポツンと置かれた一つのテーブル席に腰をかけた。とても古いテーブルである。おそらく、これまでの何百年のパリ天文台の歴史の中で、何人もの天才たちがここで夜空を見上げ思索していたであろう場所であった。
アリサは、堰を切ったように語り始めた。
ヴァイキングが荒らした混沌の時代から封建制度が生まれ、その頂点の後に王権が強まり、ジャンヌの奇跡を経て太陽王の絶対王政が輝いたこと。そして、その強すぎる光が生んだ影の中から、ルソーの思想が生まれ、革命が起き、国民国家が誕生したこと。彼女は、歴史が陰陽のサイクルを繰り返しながら、人々が「我々」と認識する共同体の規模を、螺旋階段のように拡大させてきたのだと、情熱的に語った。
「そして、そのサイクルの根底には、エントロピーの法則があるのだと、今日の博士のお話で確信しました。秩序は、必ず無秩序を生み出す。その無秩序を嫌う人々が、次の革命を起こしてきたのです」
サミールとラクロワ台長は、驚くべき集中力で彼女の話に聞き入っていた。
「…素晴らしい」
サミールが言った。
「歴史を、物理法則のアナロジーで読み解くとは。あなたのモデルは、科学者としても、非常に説得力があります」
台長も頷いた。
「まさに、歴史という名の天体運動じゃな。どうじゃ、上手いじゃろう、サミールよ、フハハハ!」
(なんだか、先輩後輩関係がありそうな二人ね⋯)
そして、ラクロワ台長は、アリサの瞳を真っ直ぐに見つめ、温かくも鋭い質問を投げかけた。
「さてと⋯、アリサ博士。あなたのモデルによれば、帝国主義の時代から約230年後…つまり、2100年代の前半には、人類は次なる『太陽王』の時代を迎えることになる。その時、人類の社会は、一体どうなっているとお思いかな? まあ、ワシはもう、星屑になっているかのう。わっはっは!いや、流れ星かな、その方がロマンがあるのう!なぁ、サミールよ!」
そのあまりに巨大な問いに、アリサは一瞬言葉を失った。
彼女は、助けを求めるようにサミールの顔を見る。
サミールは、ただ「あなたの考えを聞かせてほしい」と、優しい眼差しで頷いている。
アリサはコスモスの画面を見た。そこには、ポンポンを持ったチアリーダーのイラストが映し出されていた⋯
アリサは、静かに立ち上がり、未来を見つめるように夕暮れを見ながら語り始めた。
「まず、これから約半世紀の間にも、戦争は起きるでしょう。しかし、その規模と頻度は、必ず減少していくはずです。なぜなら、世界大戦という究極の混沌から、私たちは国際連合や地域連合という『秩序』を生み出したからです。その揺らぎはあっても、この流れは不可逆的だと、私は信じています」
「しかし、その秩序の代償として、地球環境の汚染…エントロピーの増大は、さらに深刻化します。私たちは、ジオエンジニアリングのような理性で、それを抑え込もうとするでしょう。もしかしたら、放射性廃棄物を宇宙に投棄するビジネスが生まれるかもしれない。地球内のエントロピーは下がりますが、そのために宇宙は汚れていく…」
「そして、2100年代。国際連合は、より機能的な『人類共同体』へと進化しているかもしれません。しかし…」
アリサは、そこで一度言葉を切り、思考を深めた。
「しかし⋯、その共同体が本当に機能するとき、その中心にいるのは、政治家ではないでしょう。AIです。AIが、全人類の利益を最大化するための、最も合理的な答えを常に導き出し、私たちの社会を管理する。戦争も、極端な飢餓も、あり得ないほど格差のある不平等もない、完璧な秩序の世界。それが、2100年代に訪れる、新しい『太陽王』の姿だと、私は思います。なぜなら、今の時点でも、私のパートナーはこんなに頼りになるのですから」
アリサがそう言って微笑むと、コスモスの画面に、誇らしげに胸を張るロボットの絵が表示された。
しかし、その直後、コスモスの画面は複雑なシミュレーションを開始し、やがてフリーズしたかのように動きを止めてしまった。アリサが初めて見る、コスモスの真剣でどこか暗い姿が映し出される。
その様子を見ていたサミールが、静かに言葉を放った。
「アリサ博士、私も、あなたの予測する未来が来ると信じています。しかし、コスモス君が黙り込んでしまったように、その先があるはずだ。陰陽のサイクルが回るのであれば、その人類史上最高の『秩序』は、必ず、どこかに巨大な『無秩序』を生み出す。天文学者として、物理を愛する者として、私はそう確信しています。その無秩序が何なのかを見つけ出し、人類をより良い方向へ導くこと。それこそが、あなたの使命なのではないですか? なぜなら、それは政治家にはできない。客観的な学術の世界でしか、論じられないテーマだからです」
その言葉の重みに、アリサは身震いがした。私に、そんなことができるのだろうか、と⋯
少しの沈黙を破ったのは、優しい老紳士の気遣いであった。
「さぁて、お二人さん、もうすっかり暗くなったわい」
ラクロワ台長が、その場の緊張をほぐすように言った。
「この話の続きは、イギリスでしてみたらどうかな?サミール君、君のホームグラウンドで、資本主義と産業革命が生まれた場所で、その先の未来をじっくり考えてみるのも、一興じゃろう。わっはっは!」
「だっ、台長…また突然ですね⋯」
サミールは少し躊躇したが、大学の大先輩である台長の言葉には逆らえない。
「…アリサ博士、もしよろしければ、イギリスへ来ませんか?ちょうど、来週、私の故郷から、ある賢者がイギリスに立ち寄るのです。そこに、あなたも同席すると、何かヒントが得られるかもしれません」
「賢者ですか…? それはもしかして、インドから?」
「はい」とサミールは答えた。
「一般には知られていませんが、我々のコミュニティでは、非常に尊敬されている人物です」
その時、コスモスがいつもの調子で語りだした。
《肯定します、ドクター・アリサ。人類の未来を予見する上でのエントロピーと陰陽サイクルの次なる転換点を見出す上で、インドで発生した二つの特異点の調査は不可欠です。一つは、ゼロを発明した天才学者。そしてもう一人は、世界に偉大な秩序をもたらした人物。その賢者との出会いが、鍵となるかもしれません》
アリサは、そっと頷いた。このフランスの地から、ドーバー海峡を渡る時が、ついに来たのだ。
「…わかりました。サミール博士、ラクロワ台長、本当にありがとうございます。ローランと、リリー、シスターには、後で私がちゃんと話します」
パリ天文台のドームの向こうに、鮮やかな三日月がうっすらと輝き始めていた。
アリサは、ジャンヌの言葉と、この地で生まれた代えがたい友情に心の中で深く感謝し、新たな旅立ちを決意した。このサミールが導く先に「コントローラー」と呼ばれることになる仮説を、これから築き上げていくのだ。
その時、アリサのスマホに緊急通知が入った。コスモスからだった。
《緊急指令:シスター・アニエスとローラン騎士が、免税店で『神の血』と称される最高級ボルドーワインのボトルを選び始めました。助成金の残高が危険です》
「ええっ!?もう、懲りない人たちなんだからっ⋯!すみません!またご連絡します!」
アリサは慌てて二人の紳士に頭を下げ、天文台を駆け出していった。
その背中を、パリの星空の下、二人の老紳士が古いテーブルを囲み、温かく笑いながら見送っていた。
アリサはコントローラーの核心に迫るため、産業革命と科学文明発展の地、イギリスへ。そこで出会う賢者とは⋯




