第十三章 星々の誘い / L'appel des étoiles
アリサ達一行に話しかけて来た人物とは⋯
午後9時32分。フランス、パリ。
パリでの二日目の夜。サン=ジェルマン=デ=プレの賑やかなビストロでの祝杯は、すっかり夜にまで及んでいた。
「…というわけで、騎士たるもの、常にレディの意見を尊重すべきなのだよ、コスモス君」
「了解しました、ローラン騎士。あなたの名誉は、私のメモリに永久に刻まれました」
ローランとコスモスの、もはや誰にも分からないジョークの決闘が終わる頃には、シスター・アニエスはテーブルに突っ伏し、幸せそうな寝息を立てていた。リリーが、一生懸命その肩を揺すっている。
「シスター、起きてよ、もう帰るんだよ!」
一行が店を出て、ガス灯が石畳を照らす古い通りを歩き始めた、その時だった。時を同じくして店から出てきた男性が話しかけて来た。
「失礼、そこの…歴史家の先生と、日本の博士」
男性は、少し躊躇いがちにそう声をかけてきた。
ローランが訝しげに振り返る。アリサも突然のことに警戒しつつも、(あちゃぁ、騒がしかったかな、ごめんなさい⋯!)と、四人のバカ騒ぎを心の中で詫びた⋯
しかし、その男性の声を聞いたコスモスは、瞬時にアリサとローラン(と一応シスターにも)に告げる。
《警告レベル、グリーン。対象は、ドクター・サミール・カーン。イギリス、ジョドレルバンク天文台所属の宇宙物理学者。専門は宇宙論と熱力学で、この領域では著名な研究者です。なお、少なくとも、パリの夜道で女性をナンパするタイプの危険人物であるとするデータは今のところありません、おそらく》
「おそらく、って…」
アリサは、サミールと名乗ったそのインド系の紳士に、苦笑いしながら頭を下げた。
「すみません、少し驚いてしまって。また、このAIがほんと失礼言いまして申し訳ないです⋯」
「いえ、こちらこそ、突然申し訳ありません。実は⋯」
サミールは、柔和なフランス語で言った。彼の腰の低さと、知的な瞳が、彼が悪人でないことを物語っていた。
「実は、先ほど店内で、皆様の議論を、意図せず聞いてしまいまして…。深くお詫びします。しかし、あまりにも素晴らしい議論で、耳を塞ぐことができなかったのです。特に、アリサ博士が話されていた、ヘーゲルの弁証法と陰陽思想を統合し、歴史のサイクルを説明する…あの『ジンテーゼ』の話。科学者として、深く、深く共感しました(その後の⋯騎士道の話は⋯、それはそれで興味深いやり取りでしたがね⋯)」
サミールは、興奮を抑えるように続けた。
「もし、ご興味があればですが…明日、パリ天文台で、学生向けの講演会をするのです。『宇宙探査とエントロピー』というテーマですが、もしかしたら、お二人とシスターの探求に、何かヒントになるかもしれません。よろしければお越しになりませんか?公開講演で広い講堂なので数名くらいであれば入れるかと思います」
「天文台!?」
ローランは顔をしかめた(完全に酔っている⋯)。
「我々は、これからフランス革命の、血塗られた歴史の舞台を巡らねばならんのだ。星を眺めている暇は…」
《ローラン騎士》
コスモスが割って入った。
《ドクター・アリサの探求は、人類史というミクロな螺旋から、宇宙史というマクロな螺旋へと移行する段階にあります。このセミナーは99.8%の確率で、彼女の次なる扉を開く鍵となるでしょう。騎士として、レディの未来への道を、お譲りください》
「う…分かったよ」
ローランは騎士のプライドをくすぐられ、あっさりと引き下がった。
「ありがとうございます。ぜひ、伺わせていただきます」
アリサが答えると、彼女は眠っているシスターと、その手を引くリリーに目をやった。
「ただ、この二人をどうしようかと…」
「ああ、それなら!」
サミールは微笑んだ。
「明日はちょうど天文台の一般公開日で、子供向けのプラネタリウムや、月の石の展示といったイベントもやっているんですよ。その元気な探究心ある女の子には、きっと楽しいはずですよ」
「お星さまが見れるの!?」
その言葉に、眠そうにしていたリリーの目が、星のように輝いた。
「行く!私、行く!」
「それでは、明日の午後3時から、パリ天文台での講演ですので、お待ちしております。」
サミールと四人はそこで別れ、アリサたちはホテルに戻って長い1日を終えることにした。
ホテルに戻ったアリサは、コスモスにサミール博士について、もう少し詳しく尋ねた。
「彼の研究テーマは、人類の宇宙探査と、エントロピー…って、コスモス、エントロピーっていったに何?!全然わからない⋯」
アリサは、その言葉を初めて聞いた。
《解説します、ドクター・アリサ》
コスモスは、タブレットの画面に、シンプルな図を映し出した。
《まず、部屋を想像してください。きれいに片付いた部屋と、おもちゃが散らかった部屋。どちらが「自然」な状態でしょう?》
「それは…散らかった方かしら」
《その通りです》
コスモスは続ける。
《宇宙の全ての物事は、放っておくと必ず、整った状態、つまり『秩序』から、ごちゃごちゃな状態、つまり『無秩序』へと向かいます。この『ごちゃごちゃ度』を測る尺度が、エントロピーです。エントロピーは、常に増大する、言い換えると、常に無秩序の方向に向かう。これが、『熱力学第二法則』です》
「ふむふむ⋯」
《では、なぜ私たちは、散らかった部屋を片付けることができるのか? それは、外部からエネルギー、つまり片付ける労力を投入し、その代償として、部屋の外…つまりゴミを出したりして、部屋の外のエントロピーを、部屋の中がきれいになった分以上に、増大させているからです》
「なるほど⋯」
《冷蔵庫を考えてみてください。冷蔵庫の中は冷えて、秩序が保たれています。これは低エントロピーです。しかし、そのために、冷蔵庫は部屋の中に熱い空気を排出し、部屋全体のごちゃごちゃ度を増大させているのです》
アリサはエントロピーの概念を初めて知り、その重大さを理解した。
「つまり…人間社会や文明が、秩序を作り出せば出すほど、地球全体、そして宇宙全体のごちゃごちゃ度は、増えていくということ…?」
《その通りです。そして、このエントロピーの法則こそが、ドクター・アリサがこのパリ珍道中で見出した陰陽のサイクル…なぜ封建制度などの秩序のある陽が、必ず崩壊の陰へと向かうのかを説明する、物理学的な根拠となるかもしれません。明日のセミナーは、楽しみですね》
(いま珍道中って言ったような⋯)
そして、コスモスは続けた。
《ドクター・アリサ。今回の偶然の出会いにより、これまでの特異点の分析が、次の段階に進みました。まだ伝えていませんでしたが、ネアンデルタール人、ジャンヌ・ダルクに加え、実はアブラハムも歴史の分岐点として特定されていました。今回、シスターがなぜかアブラハムの話を持ち出したことは私も驚きをもって聞いていました。詳しくは、シスターが酔から覚めたらまた話すとしましょう。そして、さらにインドに二つの特異点が発生しています。一人は、ゼロという概念を確立した…》
その時、アリサの部屋のドアベルが、優しく鳴った。隣の部屋にシスターといるはずのリリーの声がする。
ドアを開けると、パジャマ姿のリリーが、少し寂しそうな顔で立っていた。
「アリサお姉ちゃん…シスターのいびきがうるさいの⋯!今日はこっちのお部屋で寝てもいい?」
アリサはリリーを優しく招き入れた。コスモスは、その小さな訪問者を歓迎するため、タブレットの画面を壁に投影し、世界中の美しいアニメーションを、次々と映し出し始めた。日本の『となりのトトロ』、フランスの『キリクと魔女』…。
リリーは、その不思議な光の絵物語に、すぐに夢中になった。
(特異点となったインドの重要人物二人。…ゼロって、確かインドで発明されたんだっけ⋯詳しく知らないけれど⋯)
アリサは、リリーの楽しそうな横顔を見ながら、明日という日が、自分の探求を、そして世界の謎を、全く新しい次元へと導くであろうことに、期待を寄せて眠りについた。
パリ天文台での講演はアリサをどこに誘うのか⋯




