第十ニ章 ケーキのハネムーン / La lune de miel du gâteau
パリのビストロで奇妙な四人が見出したこととは⋯?
午前10時20分。フランス、パリ。
アリサたちのパリ珍道中二日目。
シスター・アニエスの計画は、まずセーヌ川の遊覧船に乗ることから始まった。
「さあ、皆さん!敵を知るには、まず地図を手に入れることです!」
シスターが、ジャンヌ・ダルクさながらの気迫で号令をかける。
「僕たちは観光に来たんじゃないんだがね…」
とローランはぼやいているが、リリーは船の先頭で可愛らしくはしゃいでいる。
セーヌ川の穏やかな流れに乗って、パリの壮麗な建築群が、まるで歴史の絵巻物のように次々と目の前に現れる。
ノートルダム大聖堂の荘厳な姿、コンシェルジュリーの重厚な壁、そしてルーヴル美術館の壮大なファサード…
アリサは、コスモスにそれぞれの建物の建造年代を尋ねた。
コスモスは、アリサが向けるタブレットのカメラ映像に、AR(拡張現実)で建立年や歴史を重ねて表示していく。
「いいね、アリサ博士」
船の手すりに寄りかかりながら、ローランが言った。
「君はもう、この街が時間の地層でできていることに気づき始めている。我々の旅は、その一番古い地層から始めよう。フランス王権が、まだ生まれる前の闇の中からだ!」
ローランは乗っていた。今日はフランスの歴史。彼が燃えないはずは無かった⋯
船を降りた一行が最初に向かったのは、パリ発祥の地、シテ島だ。
「ジャンヌの時代から約460年前、つまり、ジャンヌの時代から1サイクル前の陰の極みの時代、ここはまだ『フランス』ですらなかったんだよ」
ローランは、ノートルダム大聖堂前の広場を歩きながら語り始めた。
「ヴァイキングの襲撃に怯える、無法地帯の要塞島だ。王は無力で、人々は生き残るために、身近な実力者…つまり、後の『領主』に忠誠を誓い始めた。封建制度は、この混沌という『陰』の底から、必然的に生まれたんだね」
ローランに導かれ、一行は広場の地下にある考古学博物館へと下りていった。
薄暗い遺跡の中で、アリサは古代ローマ時代から続く、パリの最も古い石壁に触れた。
コスモスが、壁に残る傷跡をスキャンし、9世紀のヴァイキング襲撃の痕跡を分析、当時の激しい戦闘の様子をタブレットにホログラムで再現する。
「何それ、怖いっ!」
リリーは始めてみる戦いの様子に少し怖がったが、シスターが「リリー、大丈夫よ、今は私たちがいますから」と優しく手を握った。
アリサは、封建制度が単なる圧政のシステムではなく、混沌とした世界で人々が生き残るための、必死の「自己防衛」であったことを肌で感じていた。
次に、彼らが訪れたのは、同じシテ島にあるサント・シャペルだった。
ローランはここぞとばかりに解説を続ける。コスモスは、ローラン騎士の名誉にかけて、今日は主役を譲ることにしていた。もちろん、昨夜そのような事前打診が片方の騎士からあったことは伏せながら⋯
「それから約230年後。混沌の中から生まれた封建制度は、その頂点を迎えるんだ。王は力をつけ、教皇は『太陽』と称された。まるでルイ14世みたいだろう?どうやら、同じ陽の極みの時には、形変われど太陽が輝くようだね。ヨーロッパ全体が自信に満ち、外へ向かって拡大していた『陽』の時代だ」
四人は教会の中に足を踏み入れた瞬間、全員が言葉を失った。
壁一面のステンドグラスが、床から天井までを埋め尽くし、降り注ぐ太陽の光を、神々しいまでの青と赤の光の奔流に変えていた。
「万華鏡の中みたい⋯!」
リリーが呟く。
「これこそが、神の権威と王権が一体となった、中世の『陽』の力の頂点だよ、リリー、凄いだろう!」
その日の午後、一行はセーヌ川を渡り、ルーヴル美術館へ向かった。しかし、彼らが目指したのは絵画のフロアではない。その地下に眠る、中世ルーヴルの城壁遺跡だった。
アリサは、美しく積まれた巨大な石壁を見上げ、コスモスにその強度を計算させた。
《現代の小型ミサイルにも耐えうる強度です》という答えが返ってくる。
アリサは、信仰の光と、軍事の力(城塞ルーヴル)という、二つの強力な「陽」の力を実感した。
二日目の最後、一行はパリの東端にある、ヴァンセンヌの森へと向かった。ローランの十八番の時代である。
「そして、再び『陰』の時代が訪れる。百年戦争だ。パリはイングランドの手に落ち、フランス王は自らの首都に入ることさえできなかった。我々が次に行くのは、その絶望を象徴する場所だよ」
夕暮れ時、一行はヴァンセンヌ城の天守閣の頂上に立っていた。遠くには、夕日に染まるパリの街並みが見える。
ローランは、イングランド王ヘンリー5世が、フランス王位を我が物としてこの城で死んだこと、そしてここがイングランド軍の重要な拠点であったことを説明した。
「ここから、イングランド兵はパリを見ていたのですね…自分たちのものになった、と」
アリサは、戴冠できずに南に逃れていたシャルル7世の無力さと、パリ市民の屈辱を想像した。
「じゃあ、ジャンヌが来るまで、ずっと暗かったの?」
リリーが尋ねる。
ローランは頷いた。
「そうだよ、リリー。フランス中が、深い深い夜の中にいた。だからこそ、人々は、たった一つの小さな光…ドンレミ村の少女の中に、太陽の再来を見たんだ」
西の空に、最後の太陽の光が沈む。
その光景を見ながら、アリサは確信した。歴史は、まさに太陽と月のように、光と闇の壮大なダンスを繰り返しているのだ。そして、そのサイクルを動かす「何か」が確かにある、と⋯
パリでの二日目の夜。一行は、サン=ジェルマン=デ=プレ地区の賑やかなビストロで、ささやかな祝杯をあげていた。
「しかし、驚いたよ」
ローランが赤ワインのグラスを傾けながら言った。
「アリサ君が、あの民謡から、産業革命の起点まで見抜いてしまうとは」
アリサは微笑んだ。
「私一人の力ではありません。この旅で出会った皆さん、そして…コスモスのおかげです」
彼女は、この貴重な旅で学んだことを、皆と分かち合うように、ゆっくりと振り返り始めた。
「ヴァイキングが横行していた『陰』の極みの時代に、人々を守るための『封建制度』という仕組みが生まれた。その制度が絶頂を迎えた後、今度は商人や農民の力が強まり、大砲という新しい技術が、王の力を押し上げた…。それは、地方領主から見れば、王という『陰』の力が増していくことだったのでしょう。そして封建制度が崩壊する。百年戦争という新たな『陰』の底で、ジャンヌが現れ、王権という『陽』を復活させた。その光は太陽王の時代に頂点に達し、そしてまた約230年後、その光が生んだ影…ナショナリズムの熱狂が、世界大戦という、次なる『陰』の時代を招いた…」
ローランは深く頷いた。
「230年という周期が科学的に厳密な法則かは分からない。だが、歴史が『陰』から『陽』へ、そしてまた『陰』へと、大きなうねりを繰り返していることは、間違いないだろうね」
それを聞いていたリリーが、フォークに刺したポテトを揺らしながら言った。
「難しいことは分かんないけど、なんだか、太陽とお月様が順番に出てくるみたいに、世界はどんどん大きくなっていったのね!そうでしょ、ローラン先生、アリサ?」
「…世界が、大きくなっていった…?」
ローランはその言葉にハッとし、コスモスに問いかけた。
「コスモス君、リリー君の仮説を整理してくれ。ヴァイキングの時代から封建制度へ、封建制度から王政へ、そして国民国家の時代へ。この時代のうねりの繰り返しによって、世界の『統合』が進んでいった、と言えるかね?」
《ローラン騎士。おっ⋯お見事っ⋯》
とコスモスは答えた。どうやら決闘に敗れたフリをしているらしい⋯。既にローランはそのことを興奮のあまり全く覚えていないのにもかかわらず⋯このようなところはまさにAIらしいところだ⋯
コスモスは、ローランの真似をしながら詳しく解説する。
《ヴァイキングの時代、人々の共同体、これはエジプト文明や中国の秦などとは異なり、武力や法で統治するものではなく、自らがそのコミュニティの一員であると肯定した形の共同体ですが、それは『村』や『荘園』でまだまだ小さいものでした。封建制度は、それらを『公国』や『伯爵領』といった、より大きな単位にまとめ上げ、ヨーロッパの貴族という共通の文化圏を創出しました。次に、絶対王政は、それら無数の領地を『国民国家』という、言語と法で統一された巨大な共同体に統合し、国民はそれを受け入れました。そして、世界大戦の悲劇は、その国民国家さえも乗り越えようとする、『地域連合』、つまり国際連合や欧州連合といった、さらに大きな統合への動機を生み出したのです。リリー君の言う通り、歴史のサイクルは、人々が『我々』と認識しそれを受け入れた共同体の規模を、螺旋階段のように拡大させてきたプロセスであると分析できます》
「…それって」
アリサは直感であるアナロジー(類推)をした。これは彼女の得意技である。
「それって、ヘーゲルの弁証法にそっくりだわ。一つの時代が、その矛盾から反対の時代を生み出し、その二つの対立が、より高次の次元で『統合』される…。陰陽思想と、西洋の弁証法が、同じ歴史の動きを説明しているのかもしれない⋯」
「じんてーぜ?」
リリーがきょとんとして尋ねる。
アリサは優しく微笑んだ。
「ええとね、リリーがケーキも好きで、アイスクリームも好きだとすると、誰かが『ケーキの上にアイスを乗せちゃおう!』って考えるでしょ?それが『統合』よ」
「わかった、ケーキとアイスが結婚するのね!それ最初にやった人スゴイ!」リリーは手を叩いた。
「それ誰が最初に思いついたの?ケーキとアイス一緒にするなんてズルいよ、私も食べたい!」
その純粋で、しかし根源的な問いに、アリサもローランも答えに窮した。考え方を整理したのはヘーゲルであるが、いったい、誰が最初に『実践』したのだろうか。そんなこと、アリサは考えた事が無かった。
その時、静かにワインを飲んでいたシスターが、そっと口を開いた。だいぶ酔っていたが⋯
「それはっ⋯、もちろんアブラハムからですよっ!」
彼女は、まるで見てきたかのように語り始めた。
「アブラハムは、神の声を聴きました。そして、『あなたの生まれ故郷を去りなさい』という、その声に従った。自分の部族、自分の土地という、それまでの小さな世界、つまりテーゼから、神が示す未知の世界、これはアンチテーゼへと、自ら旅立ったのです。それこそが、人類が自らの小さな共同体を超え、より大きな世界へと向かう、最初の『統合』への一歩だったのですっ⋯!」
シスターの言葉に、アリサの頭の中で、これまでの旅の全てが、一つの壮大な仮説へと繋がった。シスターの目が泳いでいるが、一旦後回しにしておいて⋯
(起点がアブラハム…。それは検証が必要だとしても、この数百年のサイクルが回るたびに、世界の統合は、確かに拡大してきた。アブラハムの部族から、イスラエル民族へ。国民国家から、地域連合へ…。そして、本当の本当の始まりは、あの洞窟で起きた、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスという、二つの世界の奇跡の『統合』だったんだわ…!これはシスターには秘密にしておこう⋯少なくとも今はね⋯)
その時、リリーが、もう一つの、さらに大きな問いをアリサに投げかけた。
「ねえ、アリサお姉ちゃん。ケーキとアイスが一緒になったでしょ。じゃあ、今度の結婚は、何と何が一緒になるの?それ、私が最初に食べたい!」
その問いは、雷のようにアリサの心を貫いた。
(今度の…統合…?)
国民国家の次が、地域連合。では、地域連合の次は?一体何が何と統合していくの?その先は⋯いったいどんな世界?
アリサは、そのあまりに巨大な問いを前に、再び深い思索の海へと沈んでいくことになる。
心地よく酔が回ったシスター、ひとりでジャンヌに思いを馳せるローラン、ケーキとアイスをなんとか一緒にしたデザートを店員にねだるリリー、そしてそれを片目に未来を見つめるアリサ。
パリの秋のビストロの奇妙な組み合わせの四人が、その見た目以上の壮大なスケールの話をしていることに、いったいその店の誰が気づけたろうか⋯
いや、一人いた。その話をワインを嗜みながら密かに聞いていた人物が。
アリサを次の土地に導くきっかけとなる出会いが、彼女に訪れる。
コスモスは、ビストロでシスターが飲みまくったワインだけ、会計を分けるように、そっと店員に依頼していた。助成金の経費精算は、極めて厳格なのだから⋯
アリサをコントローラー仮説に導く出会いが近づく⋯




