第十一章 ルソーおじさんの家へ / Chez l'oncle Rousseau
パリの街でアリサたちが出会う不思議な物語⋯
午前10時10分。フランス、パリ。
パリの地に降り立った瞬間から、アリサたちの珍道中は、とにかく目立った。
東洋人の若き学者、フランス人のいかにも歴史家のように見せようとしている歴史家、快活すぎるシスター、そして好奇心の塊のような少女、その少女が手に持つタブレットに映るコスモス。セーヌ川沿いのホテルにチェックインするだけで、ロビー中の視線を集めていた。それもそのはず⋯
「さあ、皆さん!感傷に浸る時間はありませんよ!計画通り、まずは腹ごしらえと、知性の補給です!」
シスターが、まるで司令官のように一行を率いていたからである⋯
4人が向かったのは、サン=ジェルマン=デ=プレ地区にある、パリ最古のカフェ「ル・プロコープ」。
赤い天幕と、歴史の重みが染み込んだ木の扉。中に入ると、そこは17世紀に時間が止まったかのような空間だった。
「すごい…」
《1686年創業。ここは、かつてヴォルテール、ルソー、ディドロといった啓蒙思想家たちが、コーヒーを片手に革命を夢見た場所です》
コスモスの解説が、アリサの感動をさらに深める。
「ねぇ、アリサ、ケイモウってなぁに?」
リリーがアリサに尋ねる。
席に着き、濃厚なカフェ・クレームが運ばれてくると、アリサはリリーに向かって、この場所で生まれた思想の話を彼女に分かるように話し始めた。
「リリー、昔ね、王様が一番偉いのが当たり前だった時代に、『それっておかしくない?』って考えたおじさんたちがいたの。それがケイモウよ。最初はね、ホッブズさんて人が『王様が強くないと、みんな喧嘩しちゃうよ』って言ったの。でも、次にロックさんて人が『いやいや、王様が強すぎると、今度は王様がみんなをいじめちゃうじゃない』って。それで、最後にルソーさんが出てきて、『そもそも、王様より、みんなの気持ちの方が大事なんじゃない?』って言ったのよ」
アリサは、昨夜リリーが言った言葉を思い出し、付け加えた。
「お日様が強すぎると、たまには日陰が欲しくなるでしょう?そんな感じよ、リリー」
「そうなんだね、ケイモウ、ケイモウ!」
ローランが、その見事なたとえ話に被せるように言った。
「そう。そして、そのルソーの『みんなの気持ちが一番大事だ』という考え方が、フランス革命の、大きな大きな力になったんだよ」
「へえ…!そのルソーおじさんに会いたい!」
リリーの純粋な言葉に、ローランは一昨日から押され気味である⋯
「うーん、それは…」と困った顔をした。
その時、シスターがリリーの手を取った。
「リリー、それなら、今からルソーおじさんのお家に行きましょうか」
シスターは一行を連れ出し、ルーヴル美術館の近くにある「ジャン=ジャック・ルソー通り」の標識の前に立った。
「ほら、これがおじさんのお家に繋がる道よ」
「わあ!こんなに大きな標識があるなら、お家も大きいに違いないね!」
リリーは目を輝かせて駆け出した。
その光景に、ローランとアリサは顔を見合わせた。このシスターは、ただ面白いだけではない。子供の夢を壊さずに、真実へと導く知恵と優しさを持っている。実は凄い人なのではないか!
尊敬の念を持ち始めた矢先、シスターがすぐ近くのパティスリーを指差した。
「あら、美味しそうなエクレア!さあ、皆さん、ルソーは置いておいて、食べましょう!」
二人の敬意は、夢の如く、一瞬で記憶から薄らいでしまった⋯
その後、一行はついにパンテオンに到着した。巨大なドームと列柱がそびえる荘厳な建物に、リリーは「わあ、すっごく大きくて綺麗なおうち!」と声を上げた。
シスターは、地下聖堂の薄暗い通路を進み、一つの石棺の前で立ち止まった。
「リリー、ここがルソーおじさんのお部屋よ。あら、今日はちょっとお疲れみたいで、眠っているようね」
「じゃあ、あっちのお部屋は誰のおうち?」
リリーが、通路の向かい側にある、もう一つの石棺を指差した。
ローランが答えた。
「あそこにはね、ヴォルテールというおじさんが眠っているんだ。彼は、『違う意見を信じている人がいても、その人が話す権利は、命がけで守らなきゃダメだ』って教えた、とても賢い人だよ」
「へえ、二つのおうちは向かい合わせだから、仲良しなのね!」
「うーん、それがね、実はそうでもなくて…起きてる時は、喧嘩ばかりしているみたいなんだ」
「なんで?」
「簡単に言えばね、ヴォルテールおじさんは、文明が発展すればするほど、人は幸せになるって信じていた、明るい人。でも、ルソーおじさんは、いやいや、文明のせいで人は意地悪になったんだって、少し暗い側面を見ていた人だからかな」
リリーは、ふぅん、と言いながら、二つの石棺を交互に見て、言った。
「でも、朝になる時は明るくないと困るでしょ。夜になってお月様を見たい時は、暗くないと見えないし。また次の日にお日様が出てこないと、人は困っちゃうじゃない。だって、暗いと怖くて教会に行けないもん」
その言葉に、アリサとローランは衝撃を受けた。
そうだ。ヴォルテールとルソーの二人は、歴史という一つの大きなサイクルの、片側からそれぞれ見ていただけなのだ。その陰陽の循環こそが世界を動かしているのだとすれば、二人とも間違っていないし、二人ともその思想が完成していなかったのかもしれない。
ローランは、シスターに問いかけた。
「シスター、リスボンで大地震があって何万人も亡くなった時、ヴォルテールは『なぜ善なる神がこんな悲劇を?』と嘆き、ルソーは『人間が都市を作ったせいだ』と反論しました。あなたなら、どう答えますか?」
シスターは、静かに十字を切り、答えた。
「あくまで私個人の考えですが…。神様は、必ず意味のあることに、私たちを導いてくださいます。ヴォルテール様やルソー様が、そうやって深く悩むきっかけを神様がお与えになったこと自体に、きっと意味があったのでしょう」
三人が難しい話をしている間、リリーはアリサから渡されたタブレットで、コスモスが見せる紙芝居に夢中だった。
《さあ、大変です!太陽の神様、アマテラスオオミカミが、岩の奥に隠れてしまいました!世界は真っ暗です!》
「そうそう!」とリリーが頷いた。
「ずっと暗いと怖いもんね!でも、日本の神様も、ずっとお仕事してると疲れちゃうから、時々はお休みしないと!」
その言葉を聞きながら、アリサとローランは、これまでの旅を振り返り始めた。
まず、アリサが整理しはじめる。
「…陰が極まった百年戦争のフランスに、陽の起点としてジャンヌが現れた。陰の世界の太陽の始まりとして⋯」
「そして、約230年かけて陽が極まった正に『太陽王』の時代に、ルソーという陰に向かう思想が生まれた」
「その陰の力が、約230年かけてナショナリズムという新しい陽へと転化し、世界大戦に至った…」
「待って、アリサ。陰のピークはナショナリズムじゃない。国民が主役になるという思想は『陰』だ。その陰の力が極まって、自らの国の外へ出て行こうとした瞬間…つまり、帝国主義の時代に、陽へと転化したんだよ」
ローランは続けた。
「そして、ジャンヌの行動が、結果的にイギリスを海洋国家にし、アメリカ植民地を生み、フランスが王政で意思決定ができたから自国の財政破綻を招くアメリカ独立戦争の支援ができ、アメリカがイギリスから独立した。でもフランスでは、ルイ16世とマリー・アントワネットの時に革命の引き金となった…。つまり、ジャンヌの声がなければ、アメリカも、今の形のフランスも、なかったかもしれない…」
「一人の少女が聞いた声が、世界の運命をここまで変えるとは⋯」
アリサは、その動きを作り出した見えない謎を解き明かさなければならないと、改めて決意した。
「ねぇ、シスター」
アリサは、一昨日の夜の会話の続きを尋ねた。
「あなたが言いかけていた、『一番最初の声』。それは、イエス・キリストのことでしょうか?」
「いいえ、もっと前よ」
シスターは微笑んだ。
「ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、すべてはあの一人の男が聴いた声から始まったの。アブラハムよ」
「アブラハム…!」
アリサはその名を知っていた。
唯一神との契約を結んだとされる、信仰の父。
ジャンヌの声も、イエスの教えも、その源流は、4000年前に中東の砂漠で、一人の男が聴いた声に行き着くのかもしれない。
アブラハム。彼が聞いたとする神の声は、息子イサク、そして孫のヤコブへと受け継がれる「契約」となり、イスラエル民族の物語の始まりとなる。そして数百年後、モーセを通じてその声は「十戒」という具体的な「律法」へと姿を変え、一つの民族の信仰と社会の礎となり、後のキリスト教やイスラム教へと繋がる、巨大な精神史の源流となる。
(もしかして、この旅は中東まで…)
アリサの頭に、長い旅路の予感がよぎる。
その時、コスモスがアリサに告げた。
《ドクター・アリサ。リリーの生体データが、空腹による血糖値の低下を明らかに示しています。このままでは彼女は『お腹の中にいる神の声』のため、あと12分後に機嫌が悪くなるでしょうから、そろそろ夕食の時間だと告げてあげることを提案します》
そのユーモラスな報告に、三人は思わず笑い出した。
「そうね!さぁみなさん、美味しいフランス料理を食べに行きますよ!」
夜の闇に、白く美しく輝くパンテオンを振り返りながら、アリサは思う。
(今日の私たちの話を、あの部屋の中でヴォルテールとルソーが聞いていたなら、二人は何て思うかしらね⋯)
なお、このパリでの珍道中の様子が、コスモスのカメラを通じて、オルレアンのクレマン神父と、リリーの母親にひっそりとライブ中継されていたことを、コスモスのささやかな功績として、ここに記しておく。
アリサたちの次なる目的地は⋯第十ニ章をお楽しみに




