第九章 ある朗読会 / Une séance de lecture
アリサの未来探求はオルレアンの大聖堂へ⋯
午前8時10分。フランス、オルレアン。
秋晴れの空がどこまでも青い、穏やかな日曜日の朝。
アリサは、ロワール川のほとりにある小さなカフェ「ル・コアンセ・デ・ザンジュ(天使の隠れ家)」のテラス席で、一人、朝食を楽しんでいた。
(…もしかしたら、私の本当の使命は、フランス中のクロワッサンを食べ比べることだったのかもしれない…)
そんな馬鹿げた考えが浮かぶほど、淹れたてのカフェ・オ・レの柔らかな湯気と薫りに彩られた朝。目の前の通りを、マルシェに向かう人々が、フランスパンを抱えて楽しそうに行き交う。歴史ある石畳の街並みを、柔らかい秋の日差しが金色に染めていた。
店内の壁に、一枚の古い絵画が飾られているのにアリサは気づいた。甲冑をまとったジャンヌ・ダルクが、天を仰いで祈りを捧げている。この街のカフェには、ごく自然に彼女の絵が飾られている。アリサは、長き時を超えて、今もなお市民から寄せられる深い愛情を感じて、胸が温かくなった。
やがて、アリサはローランとの待ち合わせ場所である、サント・クロワ大聖堂へと向かった。
昨日、夕暮れの中に見た荘厳な姿とは違い、朝の陽を浴びた大聖堂は、まるで街全体を優しく見守っているかのようだった。
中に入ると、巨大なステンドグラスの連作が、床に色とりどりの光の絨毯を描き出していた。ドンレミ村の羊飼いの少女が光に包まれる場面、シノン城で王太子を見出す場面、そして、炎に包まれ天に召される場面…。ジャンヌの激動の生涯が、そこには息をのむほど美しく描かれていた。
「やあ、アリサ博士。見とれていたようだね」
いつの間にか隣に立っていたローランが、静かに微笑んだ。彼はアリサを導き、ちょうど始まるところだった日曜日のミサの席へと誘った。
ミサが終わると、ローランはアリサを二人の人物に紹介した。穏やかな笑みをたたえたクレマン神父と、快活で早口なアニエス修道女だ。
「先生、こちらが日本から来られたアリサ博士です。ジャンヌの『声』について、調べておられる」
「まあ!」
アニエス修道女が、アリサの手を両手で力強く握った。
「あなたも、聴こえるのですか!? なんてことでしょう、クレマン神父様!東の国から、新しい乙女が…!」
「まぁまぁ、シスター⋯、落ち着いて⋯」
神父が優しく制した。
「アリサ博士は、歴史研究として、です」
ローランはシスターにそう説明すると「彼女はいつも情熱的なんだ」と苦笑いした。
ローランの提案で、アリサは子供たちのための聖書の朗読会に参加することになった。10人ほどの子供たちが、目を輝かせてシスターの話を聞いている。
一通り話が終わった後、ローランが子供たちに問いかけた。
「みんな、ありがとう。一つ、先生に教えてほしいんだ。聖書の中で、神様に『そんなの嫌だ!』って逆らって、自分の意図しないことをする羽目になった人は、誰だったかな?」
すると、最前列に座っていたリリーという元気な女の子が、勢いよく手を挙げた。
「はーい!それならヨナだよ、ローラン先生!」
「そうそう、お魚に食べられちゃった人!」と他の子も続く。
アリサは、その名前に聞き覚えがなく、小声でローランに尋ねた。
「ヨナ…?」
その声を聞きつけたリリーが、信じられないという顔でアリサを見た。「えーっ、お姉さん、ヨナを知らないの? ダメだなぁ、大人は。ちゃんと聖書読まないと!」
アリサは、年下の女の子に少しだけ馬鹿にされてしまい、苦笑いするしかなかった。リリーは得意げにヨナの物語をアリサに語り始めた。
神様から、敵の国ニネベを救うように言われたヨナが、ヤダと言い船に乗って逃げ出したこと。大嵐が起きて、海に投げ込まれ、巨大な魚に三日三晩飲み込まれていたこと。そして、しぶしぶニネベに行って預言したら、街中の人が悔い改めて、神様がその街を赦してしまったこと⋯。
その話を聞いたアリサは、ローランに向き直った。
「博士、ヨナの物語は、史実なのですか? それとも…」
「両方の解釈があるよ。だが、多くの学者は、神の普遍的な愛を教えるための、教訓的な寓話だったと考えている」
「寓話…だとしても、いつ頃できたものなのですか?」
「確か⋯、紀元前5世紀から4世紀頃だろう」
「そんなに昔…」アリサは驚きをもって聞いた。
「つまり、その時代のユダヤの指導者たちは、すでに『敵対するコミュニティへの愛』を説いていたということですか?」
「うん、その解釈は可能だね」
(なぜ…? なぜ、あれほど排他的な時代に、これほど普遍的な思想が生まれ得たのだろう…)
アリサは、この問いを、これからの旅で必ず解き明かさなければならないと、心に誓った。
その時、子供たちの間から、大爆笑が巻き起こった。アリサたちがびっくりして振り返ると、子供たちがアリサのタブレットを取り囲んでいる。
どうやら、子どもたちが退屈そうに二人の話を待っていたので、コスモスが大サービスということで、その画面にシンプルな棒人間の絵を次々と映し出し、紙芝居のようなことをしているらしい。
《さあさぁ、『勇者マテオの初恋物語』に続いて、スペインから来た一人の勇敢な若者のお話です。題して、『ハビエル君の大冒険』!》
コスモスのいつもより少しだけ弾んだ声に、アリサは嫌な予感がした⋯。案の定、画面には、大きなハートが割れた絵の前で、泣いている棒人間のハビエルが映し出される。
《失恋の痛みを胸に、我らがヒーロー、ハビエルは、世界の果てを目指して旅に出ました。ヒマラヤの一番高い山に登り、ヤッホーと叫びます!⋯》
楽しそうに手を振る棒人間のハビエルの絵に、子供たちがどっと沸く。
アリサは、スペインでハビエルのプライベートな話をコスモスとしていたことを思い出し、苦笑いしながら突如開かれた『朗読会』が終わるのをじっと待った(さすがに、子供たちの前で止められないわ⋯)
本当の朗読会の方も終わり、アリサは神父とシスターにお礼を言った。そして、率直にヨナ書の感想を二人に話してみることにした。
「…なぜ、あれほど過激な思想が、あの時代に生まれたのか。それが、私の次の問いです」
すると、アニエス修道女が快活に言った。
「面白いわね! でも、もしあなたが『神の声』の不思議を本当に知りたいのなら、ヨナよりも、もっともっと前に遡る必要があるんじゃないかしら。そう、一番最初の声…」
「一番最初の声…それってもしかして…」
アリサが言いかけた時、リリーたちが駆け寄ってきて、アリサの手を掴んだ。
「アリサお姉さん、ローラン先生! もう難しい話はおしまい! あそこのお菓子屋さんに行こうよ! マカロンが美味しいんだよ!」
子供たちの勢いに押され、アリサとローランは、思索の海から、オルレアンの甘い香りの街なかへと、引きずり出されることになった。
美しい街を散策しながら、アリサは改めて、街の至る所にジャンヌの肖像が飾られていることに気づいた。
「博士、ジャンヌは、今のフランスに、どのような影響を与えているのですか?」
ローランは、ジャンヌがフランス革命までは忘れられた存在であったこと、そして革命後に「民衆の英雄」として再発見され、今もなおフランスの魂の象徴であり続けていることを語った。
その影響の計り知れない大きさに、アリサは改めてジャンヌという存在の偉大さに敬意を表した。彼女は、自らの探求の道筋を、心の中で整理していた。
(ジャンヌを導いた『声』の源流を探る前に、まず、結果としてその声が世界に何をもたらしたのかを、確定させる必要があるわ。ジャンヌの行動が、フランスだけでなく、イギリスの運命を変え、産業革命とフランス革命にどう影響したのか。まずは、そのドミノ倒しの全貌を…)
アリサは、次なる探求のテーマを、心に固めた。
その時、子供たちの間から、また大爆笑が巻き起こった。どうやら、先ほどの大ウケに気をよくしたらしいコスモスが、フランス語でジョークを連発披露していたらしい。
《では、もう一つ。羊と、太陽と、海。最初に挨拶するのは誰でしょう? …答えは、海です。なぜなら、海は波(la vague)に『à vos amours(恋人たちに祝福を)』と言うから…》
フランス語の言葉遊びに、ローランと子供たちは腹を抱えて笑っている。気をよくしたコスモスは、自信満々に続けた。
《では、日本のジョークを一つ。布団が、吹っ飛んだ》
子供たちとローランの笑い声が、ピタリと止まる。オルレアンの街に長い長い、静寂の時が流れた。
《…これは興味深い。ユーモアにおける文化的差異についての、貴重なデータが収集できました⋯》
アリサの未来探求〜パリ編〜をお楽しみください




