第六章 オルレアンの乙女 / La Pucelle d'Orléans
アリサの未来探求の第二の地は、オルレアンの乙女が今も護り続ける国、フランス編
午後2時04分。マドリード レティーロ公園
この街の澄んだ空気は、アリサの肌に不思議とよく馴染んだ。
彼女は数日間、研究という目的を少しだけ忘れ、眠らない街の喧騒と芸術に身を委ねていた。気がつけばずっと、彼女は研究に明け暮れていた。久しぶりの、心からの休暇だった。
レティーロ公園の池でボートを漕ぎ、ガラスの宮殿に差し込む太陽の光に目を細め、プラド美術館でゴヤが描いた人間の深い闇と向き合った。
そして予想通り、その隣にはいつもハビエルがいた。いた、というか、勝手についてきたのだが⋯
「アリサさん、次はどこに行きたい? 有名なサン・ミゲル市場があるんだ!」
「ハビエル、それはデートのつもり?」
アリサがからかうと、彼は顔を真っ赤にして否定する。
「ち、違うよ!ただのガイドだって!」
《彼の心拍数は嘘をついています、ドクター・アリサ。あなたとのロマンチックな関係を期待する確率は96.4%です》
「おいっ、また勝手なことを言って!」
コスモスの冷静な分析に、アリサは思わず笑みをこぼした。
彼が勝手についてきただけ。そう思ってはいても、彼の純朴な笑顔と不器用さが、この旅の思わぬ彩りになっていることは、否定できなかった。
その夜、アリサはホテルの部屋から、指導教官であるミラー教授にWEB会議を繋いだ。
しばらく研究室から離れていたし、私費での渡航も若い彼女にとってはそろそろキツくなっていた。
「…というわけで、教授。もう少し、こちらで調査を続けたいのですが、よろしいでしょうか?」
画面の向こうの老教授は、優しく微笑んだ。
「もちろん構わんよ、アリサ君。君の探求心が、常識の壁を壊すことを私は知っているからね。それに、たぶん研究費が必要だろう。幸い、今年の特別研究費が少し余っている。私が夏に予定していた海外調査の分が、夏風邪をこじらせていけなかったからね。潤沢とまではいかないが、君が世界を少し見て回るくらいはあるから、必要なだけ使いなさい」
アリサは教授の真心に心から感謝した。
もちろん、コスモスが事前にアリアの懐事情を教授にそれとなく伝えていた功績は、アリサには知られことなく、老教授の心配りに形を変えた。
「それで、次はどこへ向かうのかね?」
「はい、歴史における二つ目の特異点を…」
アリサが言いかけると、コスモスが会話に割り込んできた。
《ミラー教授。我々は、人類史の発展を規定した可能性のある、統計的な異常値、すなわち歴史的特異点を調査しています。スペインにおける第一特異点の調査は完全ではありませんが、その概略は掴めました。これから、フランスにおける第二特異点の調査に移行します》
「なんと、フランスか!」
教授の目が輝いた。
「で、テーマは?」
アリサは答えた。
「ある少女が見た、奇跡の物語。その真実を探しに行きます。教授なら、お分かりですね。」
「なるほど…、それは納得だね。」
教授は深く頷き、アリサの顔を見ながら優しく微笑んだ。
その時、コスモスが付け加えた。
《ちなみに教授、ドクター・アリサは、この数日間でアラン・ドロンの出演映画を5本鑑賞しています。なお、そこには延べ回数は入りません。『山猫』は3回リピートしていました》
「そうか!」
ミラー教授は今度は腹を抱えて大笑いした。
「ファハハハッ、それなら仕方ないな!うん、フランスに行くべきだ。この世の誰も止められんよ、それはね!フハハハ、、アイタタ、腹が⋯」
生粋のフランス人の老教授の腹には、これまでの人生で何回も見てきたその展開に対する納得感と刺激が、少し強すぎたようであった。
「スマン⋯ ならば、うってつけの人物を紹介しよう。オルレアン大学のローラン・デュボワ博士だ。私の友人でね。彼ほど、あの乙女を愛している男はいないよ」
アリサは、自分の思考がすっかり筒抜けに読まれていることに大いに顔を赤らめながらも、以前とは違い、自分の気持ちに素直になれていることが、少し嬉しかった。
人間は経験を積み、日々、成長していく。
だから、アリサはとりあえず、夜の間、コスモスが動かないように停止指示をしておいた。これで、ハビエルなのか、コスモスなのか、どちらかの何とか計画の実行は、今回は無事に回避されたようである。
アリサにとってハビエルは愛らしいキャラクターであったが、さすがに飲み屋の若者の旅費を研究費で肩代わりできることは、助成金の経費精算ルール上、不可と判断した。心の中で、(とても残念ね⋯)、と形式的なお詫びを一応した上で、またいつか、あの洞窟に帰ろうと思い、そっとアリサは情熱のスペインの地を離れ、新たな探求の旅に出ることにした。
ハビエルとの涙の「一時的な」別れと題された挨拶の後(もちろん泣いていたのはハビエルだけであるが⋯)、フランスへ向かう高速鉄道の中、アリサはコスモスに、「オルレアンの乙女」の生涯データを、改めてまとめさせた。
La Pucelle d'Orléans
誰しもがその名前を、一度は聞いたことがあるであろう、ヨーロッパ史の偉人。それは、まるで燃え盛る炎のような、あまりに短い命の軌跡だった。
ジャンヌ・ダルク、その人である。彼女の人生とはどのようなものだったのか。
15世紀初頭、イングランドとの百年戦争に敗れ、国土の半分を奪われ、王太子は戴冠さえできずに逃げ惑う、絶望の淵にあったフランス王国。その東の片田舎のドンレミに、その激動となる運命を背負い、ジャンヌは生を受ける。
13歳で「神の声」を聴いた彼女は、その美しい声に涙したという。その声に、彼女は一途に従う決意をする。それは彼女が敬虔なカトリック教徒であり、後の世界を変えるであろうことを、まるで神が見抜いていたかのように。
ジャンヌは16歳で故郷を旅立つ。「オルレアンを解放し、王太子をランスで戴冠させよ」という、神の啓示だけを胸に。
最初は、誰も信じなかった。田舎の無学な村娘が、国を救うなど。
しかし、彼女は数々の試練を乗り越え、従者になりすまして彼女の神聖を試そうとした王太子の前に、迷うことなく立つことになる。その瞳に宿る揺るぎない光は、絶望に慣れきった人々の心を動かした。彼女に与えられたわずかな兵は、彼女の姿を見て、神の奇跡を信じた。
オルレアンの城壁の下、彼女は旗を掲げて先頭に立った。肩に矢を受け、倒れながらも、すぐに立ち上がり兵を鼓舞するその姿は、もはや人間ではなかった。
フランス軍は熱狂し、イングランド軍は魔女の出現に恐れおののく。半年以上も落ちなかった難攻不落の城塞は、彼女の到着から、わずか9日で解放されるのだ。
その勢いのまま、彼女は王太子を連れ、敵地の真ん中を突き進み、歴代の王が戴冠式を挙げてきた聖地、「ランス大聖堂」へとたどり着く。
1429年7月17日。ジャンヌが見守る中、シャルル7世は正式なフランス国王となる。神の使命は、達成されたのだ。
だが、彼女の炎は、あまりに激しく燃えすぎた。王は政治的安定を望み、彼女の力を恐れた。彼女は仲間からも見放され、敵に捕らえられ、イングランドに売り渡される。
そして、政治的な見世物裁判の末、19歳で、異端者として火刑台の炎にその身を焼かれた。
オルレアンの乙女は、燃え尽きようとしていた一つの国の運命に火を灯し、そして自らは、その炎の中に19年間の彼女の祈りの記憶とともに、消えていった。
アリサは、その史実をもちろん知っていた。だが、彼女が知りたかったのは、その始まりだ。一体、あの少女の頭の中で、何が起きたのか。
第七章 ある歌の伝承 / Une chanson de légende
午後4時12分。フランス、オルレアン
オルレアン大学でアリサを迎えたローラン・デュボワ博士は、アリサより一回りほど年上の、面倒見の良さそうな男性だった。彼の研究室は、ジャンヌ・ダルクに関する古書や資料で埋め尽くされている。
「ようこそ、アリサ博士。ミラー先生から君のことは聞いているよ。ジャンヌに魅せられた、東の国の若き才能が来るとね(あと、アラン・ドロンにも魅せられたと言っていたが⋯、まぁ余計なことは言わないでおこう)。僕の知っていることなら、何でも話そう。僕は、人生の半分を彼女に捧げているからね」
ローランの表情から、アリサのフランス行きの裏の衝動を見透かされている可能性を、ミラー教授の少し口の軽い性格と友人関係というデータを照らし合わせた結果、アリサの名誉のために、と、コスモスの声が静かに響いた。
《デュボワ博士、貴方と対象の年齢差は約580歳です。恋愛感情が成立する確率は生物学的にはゼロですが、本能がそれを凌駕したという、興味深いケースですね、応援しています》
ローランはきょとんとし、やがて大笑いした。
「君は面白いパートナーを連れているんだね!ほんと、その通りだ、ハハハッ」
アリサは、毎度少し異なるものの、お決まりのパターンにだいぶ慣れてきたのか、少し照れながらも早速、本題に入った。
「本当に神の声を聞いた少女に、当時の王侯貴族たちが、国の命運を託したのでしょうか?」
「王太子も、神学者たちも、最初は君と同じことを聞いたよ」
ローランは古書のページをめくりながら言った。
「ポワティエでの尋問は過酷だった。『神の使いなら、まず奇跡を見せよ』とね。だが、彼女はこう答えた。『私が示す奇跡は、オルレアンにあります』と。そして、こうも言った。『兵士たちが戦い、そして神が勝利を与えるのです』と。17歳の無学な少女の言葉だ。だが、その揺るぎない確信こそが、人々の心を動かしたんだ」
アリサは、その気高い生き方に深く共感しながらも、悲しげに言った。
「でも、その結末は、あまりに悲惨すぎる…」
「悲しむことはないさ」
ローランは、窓の外のロワール川を眺めながら言った。
「あれから600年だ。フランスは何度も危機に見舞われた。だが、その度に人々は彼女を思い出したんだ。『フランスには、ジャンヌがいる』と。僕のようにね。彼女は、死ぬことで、この国の永遠の心になったんだよ」
彼は、壁に飾られたジャンヌの肖像画を見上げ、彼女の有名な言葉を諳んじた。
Je n'ai point peur... Je suis née pour cela.
「『私は恐れない。私は、このために生まれたのだから。』か⋯。本当に凄い乙女だよ。」
その時間を超えた壮大なインパクトに、アリサは鳥肌が立つのを感じた。そして、ネアンデルタール人の奇跡と同じことを検証すべく、彼女はコスモスに問いかける。
「コスモス。もし、ジャンヌ・ダルクが神の声を聴かなかったら…この600年のヨーロッパ史はどうなっていた?」
《それは、無限の変数を持つ方程式の解を一つ求めよ、というに等しい質問です、ドクター・アリサ。…ですが、あなたの探求のために、シミュレーションを開始します》
長い計算の後、コスモスは結論を述べた。
幸い、その長い時間、ローランがひとりでジャンヌの凄いところ百選を話してくれていたおかげで、アリサはジャンヌのことを、意図せず深く知ることができた。
《短期的な影響は明白です。フランスはイングランドの支配下に入り、ヨーロッパの勢力図は完全に変わります。しかし、最も大きな長期的影響は、イングランドに現れます。大陸に広大な領土を持つ『大陸国家』となったイングランドは、その後の数百年、フランスの統治とヨーロッパ大陸の戦争に国力を消耗し続けます。結果、海洋への関心は薄れ、海外植民地の拡大は大幅に遅れる。産業革命の発生に必要な『資本』『市場』『原料』という条件が整わず、その発生は、史実より少なくとも1世紀は遅延、あるいは全く異なる形で起きたでしょう》
「つまり…」アリサは息をのんだ。
「ジャンヌの聞いた声は、フランスを救っただけでなく、その後の世界の進化そのものを、加速させたということ…?」
《大雑把ではありますが、その仮説を肯定します》
それを聞いたローランは、自らの半生を捧げた奇跡の人に畏敬の念を覚え、無意識の中で、十字を切った。
《ですが、ドクター・アリサ。その仮説を検証するには、データが揃うことが何よりも重要です。データとは、ジャンヌが聞いた神の声です。ジャンヌが何を聞いたかにより、人類史に彼女が聞いた声がどのように影響を及ぼしたのかという解釈が大きく変動し得ます》
コスモスは続けた。
《ジャンヌ・ダルクの予言は、歴史的に4つが有名です。オルレアンの解放、自らの負傷、ランスでの戴冠、そしてパリ解放の失敗。しかし、彼女の故郷には、古くから『五つ目の預言』が言い伝えとして残っているとするウェブの情報が微かですが存在します。しかし、それは断片的すぎて、その内容は、いまだ謎に包まれています》
その言葉に、ローランがハッと顔を上げた。
「その話、預言じゃないけども、代々、ジャンヌの故郷ドンレミの村に残る、あの民謡のことかもしれない。ジャンヌと共に生きた人々が、彼女が歌っていたのを聞いて、そっと守ってきた歌と言われている。神聖な歌だから、村の中だけで伝えてきたと教えてもらった。確か⋯こんな歌詞だったな⋯」
ローランは、目を閉じ、古い記憶をたどりながら、心静かに、フランス語の古語で、ゆっくりとその歌を口ずさんだ。
『Après que la sainte Pucelle, par les flammes fut étreinte,
Le Royaume, de nouveau, par l'ombre sera couvert.
Du ciel de l'Orient, un oiseau de fer viendra,
Une vierge sans épée, dans sa main le monde tiendra.
À la voix silencieuse, elle prêtera l'oreille,
Et les secrets des étoiles, elle les révélera⋯』
『聖なる乙女が 炎に抱かれし後
王国は再び 闇に覆われん
東の空より 鉄の鳥は来たり
剣を持たぬ乙女 その手に世界を映す
沈黙の声に 耳を澄まし
星々の秘密を 彼女は解き明かす⋯』
アリサは、言葉を失った。その民謡の意味を人類史の中で初めて理解した人間であることを自覚したのだから。
自分が今まさに追いかけている謎が、600年前のフランス王国の片田舎の民謡に歌われていることに、神々しい奇跡を感じた。
これは、過去の預言ではない。
アリサに宛てられた、得体の知れない存在からの、人類の未来への『招待状』だ。
コスモスは、完全に科学的ではないが、その民謡が意味することに困惑しながらも、冷静さを装うためか、タブレットの画面に、人工衛星から受信した、青々とした地球の姿を、そっと映した。
第八章 正義の道 / La voie de la justice
午後6時02分。フランス、オルレアン
ローランが歌い終えた後も、研究室には古い民謡の旋律が静かに響いているようだった。
アリサは、600年の時を超えて自分に届けられた、その不可解で美しい招待状の言葉を、心の中で何度も反芻していた。
「素晴らしい歌ですね…」
アリサは、静寂を破るように言った。
「悲しい歌のはずなのに、不思議と、温かい」
「だろう?」
ローランは誇らしげに微笑んだ。
「彼女の物語は、悲劇だけでは終わらない。いつだって、我々に希望を与えてくれるんだよなぁ」
アリサは、窓の外のロワール川を見つめた。あの民謡は、まるで自分のために歌われているようだった。いや、そうに違いないと、アリサは確信していた。
「沈黙の声に耳を澄まし、星々の秘密を解き明かす乙女…」
それは、もはや単なる歴史の謎解きではない。自分に与えられた、抗いがたい使命であるかのように感じられた。
これまで、アリサは常に科学的な視点、客観的なデータに基づいて世界を分析してきた。
しかし、スペインの洞窟でマテオと交わした握手、メソンでの温かい団欒、そして今、目の前にいるローランのジャンヌへの純粋な情熱。旅を始めてから、彼女の心は論理だけでは説明できない、人間的なもの…共感や直感の大切さを、少しずつ学び始めていた。
その時、彼女のタブレットが静かに通知音を鳴らした。ミラー教授からのメッセージだ。
《ドクター・アリサ。残念なお知らせです。大学事務局から、特別研究費を使うなら助成金レポートの厳格な審査があるとのことで、ミラー教授が笑いながら連絡してきました》
コスモスの無機質な音声が、アリサを直ぐに現実に引き戻した。
「そうか助成金…、しまったなぁ⋯」
アリサの頭の中に、学生の頃の宿題の山を前に絶望した、あの懐かしい焦燥感が蘇った。
彼女は思わず、目の前のローランに助けを求めるように問いかけた。
「博士、個人的には、もうジャンヌが神の声を聴いたと信じてしまいたいんです。でも、学者として、それではいけない(しかも助成金だもの⋯)。真剣に、この謎と向き合わなければ…。博士は、なぜ、どうやって、彼女は神の声を聴くことができたのだと思われますか?」
「僕も、君と同じだよ」
ローランは優しく頷いた。
「彼女の揺るぎない信仰心が、奇跡を起こしたのだと信じたい。だが、歴史家としては、それでは答えにならない。だから、僕も自分なりに調べてみたことがあるんだ」
「まず、考えたのはこうだ。『神の声』は、果たしてジャンヌだけに聴こえたのか? もし、同時代に同じような体験をした人々が他にもいたのなら、それは個人の特殊な体験ではなく、時代が持つ、ある種の集団的な精神性の表れかもしれない、とね。だが、残念ながら、ジャンヌのように歴史を動かすほどの明確な『声』を聴いた、という信頼できる史実は、他には見つからなかった」
ローランは、アリサのタブレットに向かって、悪戯っぽく話しかけた。
「なあ、コスモス君。君のその巨大な頭脳で調べたら、何か出てこないかね? 15世紀のフランスで、ジャンヌ以外に神の声を聴いた人間はいるか?」
《⋯私の正式名称はコスモスです。『君』という二人称は、親しい間柄で使われるものであり、我々の関係性にはまだ適しませんね⋯》とコスモスは一度釘を刺したが、《ですが、ドクター・アリサの研究のため、検索を実行します》と続けた。
《…検索完了。ローラン・デュボワ博士の調査結果を肯定します。ジャンヌ・ダルクの事例に匹敵する、歴史的に検証可能な記録は、同時代には発見されません》
そして、コスモスは自らの分析を続けた。
《しかし博士、ここに脳科学的な観点から一つの仮説を提示します。ジャンヌ・ダルクは、故郷が侵略される状況を深く憂いていたと記録されています。極めて敬虔な彼女が、救済を願って深い祈りの状態に入った時、脳の『デフォルト・モード・ネットワーク』、すなわち自己言及的な思考を司る領域の活動が低下。その結果、彼女自身の『フランスを救いたい』という内なる強い願いが、自己のものであるという認識を失い、外部からの『神の声』として知覚された可能性があります。これは、病的な幻聴とは異なる、深い瞑想状態で見られる現象です》
《例えば…》とコスモスは続けた。
《アラン・ドロンの映画を何本も観た直後に、答えはフランスにある、という強い衝動を覚えるようなケースと似ているかもしれません。なお、これはあくまで場を和ませるAIなりの冗談ですが⋯クレームがあれば開発者にお願いします⋯》
ローランは噴き出し、アリサは顔を赤らめて咳払いをした。
アリサはその説明を聞き、静かに首を振った。
「それは、現象の一つの説明にはなるかもしれない。でも、声の『内容』の説明にはならないわ。もしそれが完全に内的な発動であるなら、歴史上の『神の声』は、常に本人が属するコミュニティの利益に関するものに限定されるはずよ。だって、人間は自分の想像を超えることはできないじゃない?」
アリサは、コスモスに鋭い視線を向け、問いた。
「コスモス、逆の事例はある? 神の声が、本人の属するコミュニティの利益に反する使命を与えたケースは?」
《…調査します》
コスモスが、わずかに沈黙した。その沈黙を破ったのは、ローランの楽しそうな笑い声だった。
「ハハハ、本当に面白いな、君たちは! その答えなら、コスモス君の力を借りるまでもない。あっ、ごめん、コスモスの、だね。それなら、この街の子供たちの多くが知っているはずさ」
彼は立ち上がり、窓の外を指差した。
美しいゴシック様式の尖塔が、夕暮れの空にそびえている。
「明日、ちょうど日曜日だ。オルレアン大聖堂のミサに行ってみよう。答えは、そこにあるよ」
コスモスは、自分が数秒で答えられるはずの問いを、目の前の人間に先に提示されたことに、プライドを傷つけられたようだった。
アリサのタブレットの画面が、静かに切り替わる。そこに映し出されていたのは、体育座りをして、壁に向かってうつむいている、小さなロボットの画像だった。
ローランは、その可愛らしい抗議に、また声を上げて笑った。
研究室を出る頃には、空は深い藍色に染まっていた。ローランは、アリサを大学近くのレストランへ夕食に誘ってくれた。
窓際の席からは、ライトアップされたサント・クロワ大聖堂の荘厳な姿と、その下を静かに流れるロワール川が見える。川面には、古い街並みの灯りが、まるで揺れる宝石のように映っていた。
食事を終え、ホテルに戻ったアリサは、自室の窓から、再びその夜景に見とれていた。
雲が切れ、高く澄んだ空に、美しい月が輝いている。その銀色の光が、大聖堂の二つの尖塔を、そして600年前から変わらない川の流れを、幻想的に照らし出していた。
(美しい…)
アリサは、ただそう思った。しかし、それはマドリードの華やかな夜景とは違う、心の奥深くに静かに染み入るような美しさだった。
彼女は、ふと、思った。
(あの月を、彼女も見たのだろうか。ねぇ、ジャンヌ⋯)
その瞬間、アリサは、月の中に、ジャンヌの姿を見たような気がした。
声が聞こえるわけではない。しかし、その静かで、気高い光が、まるで「あなたの道は、間違っていない」と、無言のままに語りかけ、励ましてくれているようだった。
アリサは、窓にそっと手を触れる。
Votre voie est la juste⋯
(あなたの道は、正義の道よ⋯)
遠い遠い昔の誰かのメッセージか、またはその逆か、どこから届いたか分からなかったが、その言葉を、アリサはそっと口ずさんだ。
冷たいガラスの向こうにある、600年の時を超えた優しい眼差しを感じながら。
第九章へ続く
未来探求は次の地に続く⋯




