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「クー」

「う……」


 頭がズキズキする。痛む部分に手を当てると、どろりとした赤い液体が手に着いた。

 頭を殴られて気を失っていた。もうろうとした感覚の中でそこに思い至る。大丈夫。頭を通る血管は多いから出血は派手になっているだけだ。布を当てておけばすぐに血は止まる。半身を起こしてハンカチを取り出して、頭に当てる。


「誰かに殴られた……?」


 エリックは周囲を見回し、状況を確認しようとする。暴漢に殴られたのなら縛られているか財布を盗まれているかの被害があるはずだ。だがそういった事例は何もない。殴られて、そのまま放置されている状態だ。

 もしカメの合成獣キマイラが万全なら、エリックは生きてはいなかっただろう。クーの拘束で片足の跳躍での体当りだったからこそ、この程度で済んだのだ。その辺りはエリックの知る由ではないのだが。


「そうだ、クーに聞けば……クー?」


 今しがたまで自分に絡んでいた少女の姿を探そうと立ち上がり、そこで初めて周囲の異常に気付いた。

 歪なクモの巣。糸で絡まった部分が締め付けられるようにして壊された跡。糸に捕らわれている合成獣キマイラ。そして――


「ああああああああああああ!」


 アラクネ。

 感情のままに暴れる女性の顔は鬼神の如く。怒りに身を任せ、荒々しい声をあげて周囲に糸を解き放っている。解き放たれた糸は周囲の檻を破壊し、そこから逃げる獣を捕らえ、吊るし上げている。あのまま吊るしていれば、重力で関節が破壊されてしまうだろう。

 蜘蛛の下半身は黒く、闇を想起させる。足の爪は鋭く、人の体などあっさり貫きそうなほどである。臀部に描かれた紋様は美しくもあり同時に人を狂わす異形の斑。見るもの全てを狂気に堕す魔の印。

 戦の女神が呪い、地獄の門に住むといわれた蜘蛛。

 それが本性を現して暴れていた。


「――――っ」


 クーが下半身をクモにして戦うのを見るのは、これが二度目だ。山の中で本気になった彼女をエリックは見ている。

 だがその時は、まだ少女の相貌を残していた。人懐っこく、距離感をフルスロットで詰めてきて、<変化メタモルフォーゼ>を解いてもまだ彼女らしさは失っていなかった。

 だが、今目の前にいるアラクネは違う。クーらしさは何一つ残っていない。ギルドの資料にあるアラクネと言う魔物そのものだ。巣を張り、糸を使って獲物を捕らえ、無抵抗になってから食べる。

 糸が触れて、絡まると同時に檻が破壊される。普通の獣よりも力が強いだろう合成獣キマイラを閉じ込めることが出来る檻も、アラクネにかかれば紙くず同然だ。

 これがアラクネの本気。むき出しの破壊衝動のままに暴れる魔物なのだ。その嵐に巻き込まれれば、人の体など容易く吹き飛ぶ。

 戦士であっても避ける事も耐えることも難しい。

 魔術師であっても呪文を唱える暇すらない。

 人間のジョブなど塵芥。鍛え抜かれたAランクジョブ2パーティで挑み、ようやく勝率が生まれる相手だ。


 だが――蟲使いなら?


 アラクネに蟲使いのスキルが通用することは実証済みだ。<命令オーダー(虫限定)>を使えば、動きを押さえる事もできるだろう。魔物を退治することは、人間として当然のモラルである。

 あるいは動きを封じてそのままアラクネを殺せば、A-クラス魔物が有する大量のエーテル(けいけんてん)が手に入る。そうなれば最底辺のジョブである蟲使いは準神話殺しにまで成長し、英雄としての華やかなストーリーが待っている。

 今まで馬鹿にしてきた者を見返して、強くなった力でさらに栄光を重ね、伝説に残る存在になれる。その強さに多くの女性は見惚れ、活躍は国を挙げて褒めたたえられるだろう。富、女、地位。この世の栄華を得ることも夢ではない。

 ここで蟲使いのスキルを使うだけで、その未来は約束される。


「クー」


 だがその未来は、


「落ち着いて。あの、何があったの?」


 エリックが話しかけることで、霧散した。

 エリック・ホワイトが英雄となって伝説に残る未来は閉ざされる。彼が彼女を殺すという事は、どのような状況であれありえないだろう。彼が世界の英雄になれる唯一無二の機会は、閉ざされたのだ。

 無論、本人はそれを知る由はない。だけど仮に知っていたとしても――

 

「ふぇ……エリっち?」

「えと、ふぇ、じゃなくて……ってわああああああ!?」

「生きて、生きて、た……あーし、ひとりに、エリっち生きて……わあああああああああん!」


 いきなり抱き着いてきたクーに押し倒されるように転ぶエリック。そのまま胸の中で泣き続けるクーを見ながら、エリックは事情を聴くことを諦めた。よくわからないけど、落ち着いてくれたのならそれでいい。

 下半身のクモの部分を見る。魔物のようだと思っていたその部分も、今となってはどうでもいいとさえ思えてきた。


「良かったぁ……あーし、怖かった……ああああああああ!」

「あー、うん。そっか。ごめんね」


 クーが泣き止むまで、エリックは起き上がらずにその頭を撫でていた。


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