Ⅲ.
依頼内容はこうだった。指定された時間に指定された場所へ行く。在り来たりな物だった。勿論、本来なら彼女が行くべき所だ。しかしそれには及ばない。この名探偵・鴨志田周郎が彼女の代役を務めるからだ。周りを見渡せば見慣れぬ顔が教室を埋め尽くしている。大丈夫、この中に僕という存在を疑っている人間は確認出来ない。つまり、僕の潜入は無事成功した、という事だ。
大学という、不特定多数の人物がそれほど密な関係を築かずに入り乱れる場所にあって、潜入というものは比較的容易い事である。勿論少数な単位で行われるゼミなどは例外になるが。
しかし安心するのはまだ早い。僕は怪しまれないように背中を丸め、ジャケットの内ポケットからメモ帳を取り出した。
奥田愛、佐々木陽菜。走り書きで記されたふたつの名前。そう、これが今回僕のマークする相手…という訳ではなく、依頼人とその友人の名前である。本来、僕は依頼人の安全を考え、名前や学科などは事前に聞かない事にしている。仮に捕まり、尋問を受けたとしてもーーあるいはそれ以上、口にするのが悍ましい事を受けたとしてもーー依頼人の安全を守れるからだ。探偵は依頼人を守秘する義務がある。勿論、依頼を遂行し、報酬を受け取る際にプロポーションや顔を見て、名前やメールアドレスを聞く事はある。結果は…想像にお任せする。
しかし今回の依頼には名前や学科のみならず、学籍番号も必要となった。こんな情報が外部に漏れてしまっては、依頼人を著しく危険な状態へ晒してしまう事になる。余談だが一人目は愛と書いて『めぐみ』二人目は陽菜と書いて『はるな』と読むらしい。最近はこういった、一筋縄ではいかない難読な名が目立つ。しかしふたりとも、可愛らしい名である。今回は初めから依頼人の名前が知れてラッキー…もとい、普段の依頼に比べ、危険度が高い。
おっと、そうこうしている内に、問題の紙切れが前の無愛想な男から送られてきた。どうも、と礼を言いながらそれを受け取り、二枚手元に滑らせてから後ろで談笑している男子グループの一人に手渡す。
僕はその紙に、書道二級の実力を遺憾なく発揮し、指定された文字を書き込んでいく。ひとつのミスも許されない。緊張の一瞬だった。最後の一文字を書き終え、僕は長編ハードボイルド小説を書き終えた作家が如く一息ついた。あとはこれを提出するだけ。僕は満足感を覚え、腕を枕代わりにして眠る態勢に移った。
後ろから教授に向けて何か声がしたが、僕の脳内にはすでにマイルス・デイビスが流れていたのでよく聞き取れなかった。一枚足りない、とかどうとか言っていた。僕は気にせず心地良いジャズの中で眠った。
代返という危険な仕事を終えて。
「よう、名探偵」
僕が人くさい教室から逃れるように出てくるのを根岸が待ち構えていた。彼は学生の身分で紫煙を燻らせている。
「任務は無事終了、かい?」
ああ、と短く返事をし、僕は煙から逃れるように歩き出した。彼も僕の横に並んで歩き始める。
「しかしまあ、探偵っていうのも代返、じゃなくて大変だね」
ブラックジョークを交えながら根岸が言う。
「か弱い女性を守るのは探偵の、いや、男として当然の責務だろう? 僕はそれを果たしたまでさ」
横で興味なさげにふーんと鼻を鳴らした根岸は、以前も言ったがよく分からない男だった。たまたま入学してすぐのオリエンテーションで隣同士になり、僕が一方的に話しかけた事が僕らの友情のスタートだった。彼自身、たいして探偵というものに興味も無く、僕という人間にも興味が無さそうだ。しかし事あるごとに僕と共に行動し、下らない話にも付き合ってくれる。
「そのか弱い乙女は今頃何してるのかねえ」
無粋な事を言う。依頼人のプライベートは詮索不要。それが僕が信じて揺るがない、ハードボイルドというものだ。
「今頃彼氏とネズミの王国にでも行ってるんでないの?」
ハードボイルドは揺るがない。はず。




