Ⅱ.
「よう、名探偵」
月曜日の四限目。僕の苦手な生物学の時間だ。『よう、名探偵』などと眠たげな声で僕の事を呼ぶのは、根岸以外この大学に存在しない。
「よう、相棒」
僕は朝の出来事など気にしていないかのようにニヒルな笑みを浮かべて彼の横に腰を下ろした。彼、根岸凛は掴み所が無い、と言えば無いし、あるような気もする。彼は僕と同じく、若者の言葉を借りるなら、所謂『ぼっち』というやつだ。しかし『ぼっち』にも種類があると、僕の調査結果は物語っていた。
若者言葉を拝借してばかりで申し訳ないが『ぼっち充』というジャンルに括られる人間もいる。つまり、人との関わりをなるべく断ち、自分のスタイル・時間活用を貫くがために孤立化している人間の総称。更に言えば、孤立化している事を気にしていないケースが非常に多い。というか全く気にしていない。
無論、僕もただの『ぼっち』ではない。そう、僕は唯一孤高の『探偵ぼっち』なのだ。恐らく弱冠二十歳でこの境地に達した者は、人類史が始まって以来、いないと思う。響きが子供に流行りの妖怪なんちゃらとはなんの関係もない事をあらかじめ断っておこう。
「えー、ではまず、先週出していた課題の回収をしまーす」
禿げかけた、見るからに妻と娘にーーいればの話だがーー臭い、などと蔑まれていそうな眼鏡の教授が言葉を発すると、やべえ、とか、忘れてた、とか、あちこちから色々な声が聞こえてきた。大抵こういう時に声を発する者は親の脛をかじり、彼氏彼女を作る事だけに集中しているお猿さん一歩手前の連中なのだ。
それに比べこちらは緻密も緻密。用意周到に、念入りに準備を重ねてきている。左隣で腕を枕代わりにして寝る体勢に移った優秀な人材に恵まれた僕に、一厘たりとも死角は存在しない。
「ふ…。やはり持つべきものは金でも女でも、ブランド物でもない。友だよな?」
僕はミラノで開催されるファッションショーに登場し、ランウェイを優雅に歩くモデルさながらの動きでレポート用紙を提出し、好奇…もとい、羨望の眼差しを一身に受け元の席へと戻った。そこで発したこの言葉に、頼れる相棒はいびきで返事を返す。普段何をしているか分からないが、この男はとにかくよく寝る。
その日の夕方、本日の全行程を終えて根岸と共に帰路につこうとした時、突然僕の携帯電話が鳴った。お決まりの着信音。心当たりを探すが、見つかりそうもないので通話ボタンを押した。もしもし。渋目の声で言う。根岸はあくびをしている。
ーー もしもし? あなたが鴨志田さん?
そうですが、御用件はなんでしょう。電話の主は女だった。胸が高鳴り、若干声が上擦った気がする。
ーー 五号館の裏に貼ってあるポスターを見て…。あなた、探偵って本当?
依頼だ。僕は携帯電話を右手から左手に持ち直し、ジャケットの内ポケットからメモ帳とペンを取り出そうとする。
「ええ勿論です。探し物ですか? それとも身辺調査?」
掴み損ねたペンがスルリと指から抜け落ちる。運悪く立ち止まった場所は側溝の網の上だった。
ーー いえ、あの…。そんな大それたことじゃ無いんだけど。どうしても都合が悪くて、それで…。
電話の向こうで女は言いづらそうにしている。ここで優しい一言をかけるのがハードボイルドってものだ。優しくなければ生きる資格は無い、との格言もある程だ。困っている僕に根岸がほらよ、と言わんばかりにペンを差し出す。優しさを体現する男だ、君は。僕はそれを受け取り、ウインクをした。
「お嬢さん、あなたはお困りのようだ。そんなあなたを放っておく訳にはいかない」
チャコール・メローイング製法を施したウイスキー、つまりジャック・ダニエルのようなメロウさを言葉に含めた。ちなみに、ジャック・ダニエルは僕の愛飲のウイスキーだ。去年買った物がまだ半分近く残っているが。
ーー ありがとう! あなた優しいのね!
そう言って彼女は電話の向こうからあれやこれやと依頼内容を事細かに説明し始める。当初の燃え盛る火炎のように生き生きとしていた僕の顔が、段々と鎮火していく様子を横から眺めていた根岸は、僕が走り書きしたメモ帳の文字を見て、僅かに口角を上げて鼻で笑った。用件を聞き終えて電話を切った僕は根岸にペンを返し、言う。
「ありがとう、あなた優しいのね」




