Ⅰ.
某県H市にキャンパスを構える青桐大学。在学生一万二千人程度の中堅私立大学だ。市街地から少し離れた山間に建つ赤煉瓦風の校舎に、今日も多くの学生が遊びに…もとい、勉学に励みにやって来る。
かく言う僕も、一万二千分の一だ。最寄り駅からの通学用バスに押し詰められるようにして、精肉工場に出荷されて行く豚のようにして大学へ運ばれて行く。
またアイツがいた。そう、決まって月曜日のこの時間、同じバス、同じ位置に陣取っている豊満な体付きのアイツ。僕は大抵奴の近くにーー運命的なモノでもあるのだろうか、理由は分からないーー立つ羽目になる。
奴がこちらを見た。まつ毛の長い、ぱっちりとした目。流行の大きな黒縁メガネ。程良く肉の付いた、所謂ぽっちゃり系の顔。染髪したがる輩が多い中、アンチテーゼを唱えるかのように黒光りする艶やかな髪。タイトな無地のTシャツに、隠しきれないバスト。僕は慄いた。
この形容が全て、女性を表す意味を持っていれば問題は無かろう。僕だろうと誰だろうと、健全な男ならーーましてや盛んな大学生ならーー喜んで近付いていく。いや、むしろ男児たる者近付くのが礼儀というものであろう。しかし問題は、そう。
奴は男だった。
夏も近づく八十八夜。真夏には三十度後半を簡単に叩き出すH市の皐月である。今年は何処のキー局のニュースを見ても異常気象、異常気象と念仏のように唱えている。数年前から聞いている言葉で、異常気象という言葉が持つ、異常性を感じなくなってしまった。しかし、まだ五月だと言うのに、だ。やすやすと摂氏三十度を示す温度計には異常性どころか怒りすら感じる。
そんなカリフォルニアじみたーー無論、行ったことは一度たりともないーー暑さの中、満員のバスで、嬉しくもない豊満な体を密着させられる僕の気苦労の方こそ、異常気象の事などよりニュースで報じられるべきだ。僕は世の中のサラリーマンが憂鬱に迎える月曜日を、殊更憂鬱に迎えるしがない大学二年生だ。
「よう、名探偵」
一限目の授業を受ける前に、僕は毎朝必ず学食で朝食を摂る事にしている。雨が降ろうが槍が降ろうが、豊満な体に抱かれたあとでも、だ。
「よう、相棒」
僕らに『今日もいい天気だな』とか『調子はどうだ』とか、たわいのない会話は必要無かった。名探偵と相棒。二人が交わす会話は凝縮され、洗練されている。
「今日もいい天気だな〜。調子はどう?」
熱々のブラックコーヒーをおちょぼ口で啜り、あちち、などと言って僕の理想をいとも簡単に打ち砕いた一見冴えない黒髪の男。彼こそが僕の相棒にして唯一と言っても過言ではない友人、根岸凛だ。
言い忘れたが、彼が僕の事をなんと呼んだか思い出して欲しい。そう、探偵だ。自分で言うのもなんだが、僕はこの大学内で起きる事件を受け持つ、いわば一匹狼の孤独な探偵だ。サラリーマンよりも憂鬱な気持ちで月曜日を迎える学生、というのは表向きの顔だ。探偵には時として、複数の仮面が必要なのだ。彼はそんな僕の助手として時たま手を貸してくれる、心強い理解者だ。
「珍しいじゃないか、こんな早くに」
僕はそう言いながら根岸と対面する形で椅子に腰掛けた。余程熱かったのだろう。ソーサーにカップを置きながら根岸が口を開く。
「お前と最も高確率で会えるのはこの時間、この席。愛しの金子さんを見ながらのブレックファーストタイム、って推理だ」
意地の悪い笑みを浮かべて根岸が顎である方向を示す。学食の注文・受取をするカウンターの奥、その女性は忙しく動き回っていた。
彼女の名は金子さん。下の名は知らない。僕がこの青桐大学の新入生として初めてこの学食で出会って以来、心を奪われ続けているマドンナだ。彼女は朝しか出勤していないようで、昼間や夕方にその姿を見た事はない。
僕はそんな天使のような彼女をよく望める、学食の中央部やや右より、『ほうれん草で毎日元気!』と、ほうれん草に含まれる栄養素やら何やらの事が書かれたポスターが貼ってある柱のすぐ隣、二人掛けのテーブル席を愛用している。僕らの間ではこのテーブルを示す言葉は『ほうれん草』で事足りる。
僕が足繁く学食に通っているのは、優雅なブレックファーストタイムに心酔しているからではない。
「それはそうと、ひとつ事件を解決したもんで」
その瞬間僕の脳に電撃が走った。そう、探偵という生き物は『事件』という単語を聞くと目が爛々と輝くのだ。その迫力を根岸も感じ取ったのだろう。僕が何も言わずとも、何故か大学生の間で普遍的に流通している無個性なリュックサックから二枚のA4用紙を取り出した。そこには『生物学A レポート』とポップ体でデカデカと見出しが書かれていた。そのすぐ脇に、鴨志田周郎。僕の名だ。
「素晴らしい!」
一枚目の半分程まで読んだところで僕は感嘆の声を上げた。まるで何処かの教授の論文のようだ。
「じゃ、約束の」
僕が熟読している間に適温になったのだろう。根岸がブラックコーヒーを啜りながら右手を差し出してくる。僕は綺麗に纏められたレポート用紙を机に置き、ジャケットで右手を拭いてから彼の手を握ろうとする。
「あいた!」
ペチンと音を立てて根岸が僕の右手を叩いた。
「気持ち悪いな。そっちの気があるのか?」
どうやら友情の握手ではなく、報酬を寄越せ、という意味らしい。やれやれ、趣の分からない奴はこれだから。僕はバリバリと音を立てながらマジックテープを剥がし、中から百円玉四枚と五十円玉二枚を取り出す。机に掌を被せて置き、バーテンダーが如く根岸の方へと差し出す。微笑みを添えて。
「一枚五百円の約束だろ? 二枚だから千円」
「ああ、そうだったね。済まない」
失敗した、と自嘲気味の笑みを浮かべ、小銭を財布へしまう代わりに千円札を一枚取り出した。人差し指と中指でそれを挟み、根岸に向けて差し出す。彼は毎度、とだけ言うと、愛想のない猫のように、餌である千円札だけ取り、またブラックコーヒーを飲み始める。
まあいい。これで苦手な生物学の単位も安泰だ。僕はレポート用紙を一枚捲った。それと同時に僕の顔から笑みは消え、根岸はカップを置いて席を立った。
僕が顔を上げて口を開こうとした時には、もう彼は全力でダッシュをかまし、人混みに紛れ込んでいた。唖然としながら溜息をひとつつき、余白の多い二枚目のページに一枚目のページをそっと被せた。




