Ⅴ.
愛の味にも似たワインレッドのシャツを完璧に着こなして僕の前に座っている女性は加瀬綾乃と名乗った。そこで僕の脳内の点と点が繋がった。
「どうかしました?」
人間、無意識のうちに顔に出てしまうものである。一種特別な人間が出来るというポーカーフェイスは、残念ながら僕には備わっていないようだ。あんぐりと空いた口を閉じ、ひとつ咳払いを挟み、口を開いた。
「失礼。こんな所でミス・青桐にお会いできるとは、思いもよらなかったので」
彼女は「ああ」と言って、少し難しい表情をした。ミス・青桐が発表され、割れんばかりの拍手を受けていた、あの時の目の色と同じだった。喜びというより、一抹の哀愁や恥じらいを感じさせる目だ。
「知っていたのね。恥ずかしいわ」
「これでも探偵ですからね、情報が生命線です」
そう言って僕は熱を失いつつあるコーヒーを一口啜った。彼女は僕がカップをソーサーに置くのを待ってから口を開く。
「知っているなら、少し手間が省けるわね」
ちょうどその時、彼女の元にアイスティーが運ばれてきた。僕が用を足しに席を外している際に頼んだのだろう。店員に簡素なお礼を言い、すぐ飲む事はせず、何かを確かめるかのようにストローを回す。氷がカランカランと心地良い音を立てる。
「私がミスコンに応募してから少し経ってから、手紙が届いたの。それがこれ」
そう言うと彼女は横の席に置いたバッグから一通の手紙を僕に向けて差し出した。それを受け取り、彼女の同意を得てから中身に目を走らせる。
「『ミスコンを辞退してほしい』という内容の手紙。最初はそれだけだったんだけど、段々内容が過激になっていって…」
バッグの中から更に二通、三通と手紙が現れる。僕はひとつひとつに目を通す。
「『夜道に気をつけろ』…。かなり悪意が込められているようですね」
「私も怖くなって出場を辞退しようかと考えたの。でも周りの友達も『ただの悪戯だよ』って言うし、学園祭も近くなって今更辞退も出来ないかなと思って…」
彼女の言葉は尻すぼみに小さくなる。仕方のない事だ。話す事で記憶が掘り返されてしまうのだから。僕だって過去の事を話すのは辛い。ほとんど良い思い出がない事もそれを助長する一因だが。
「…あの、こんな事聞くのもなんですけど」
暫しの沈黙の後、彼女が口を開いた。
「彼女はいますか?」
唐突な質問だった。生まれてこの方、女性から「彼女はいますか?」などと聞かれた事はーー母親を除きーーほんの一度たりともない。恋愛に関してはズブの素人なのだ。焦るな、という方が難しい。しかし、今日の僕は何かが違った。内面は焦燥しきっているものの、外面は上手く取り繕えた。先程脳裏にポーカーフェイスという単語が浮かび、それが頭の片隅にあったから出来た離れ業なのかも知れない。
「特定の異性は、いません。探偵には不要ですから」
完璧に決まった。しかし、相手の反応は芳しくない。何か不満だったのだろうか。
「そうですか。…じゃあ、女の子の友達は?」
「友達と呼べる者は…あ、います。一人だけ」
しまった、と思っても既に遅かった。異性の友達が一人しかいない事が赤の他人に、つい口を滑らせて言ってしまった。大仰に咳払いをし、補足を付け加えた。
「勿論、異性の知人はたくさんおります。無論、同性の知人もね。…しかし、何故そのような事を?」
すると彼女は申し訳なさそうな表情をして、僕を見つめる。
「そのお友達、今から呼べませんか?」
伊勢谷夏希が店に入ってきたのは、電話をしてから約二十分が経過した頃だった。息を切らし、慌てた様子で扉を開けたかと思うと、バタバタと走りながらカウンターの席に腰掛けた僕らの所へとやって来た。
「なになに!? 事件て何なの!?」
彼女もまた、僕と同類の探偵マニアなのだ。事件という単語を目の前にチラつかせると、あっという間に食いついてしまう。その熱意は僕も見習うべきだと感じる。
「まあまあ、落ち着きたまえよワトソン伊勢谷」
「何がワトソンよ! ホームズ鴨志田とでも言うと思ったか! しかもこんな美人さんと一緒なんて、これこそ事件よ!」
全くもって失礼極まりない物言いをする奴だ。僕だって午後のティーブレイクを美女と共に過ごす事は多々…無い。全くもって的確な物言いをするお方だ。
「あの、すみません。わざわざ来てもらって」
僕と伊勢谷の漫才のようなやり取りを見ていた加瀬が申し訳なさそうに口を開く。はっとした様子の伊勢谷が加瀬に向き直り、頭を下げる。ここだ、と言わんばかりに僕が話を本筋へと導く一言を発する。
「さて、何故彼女に来てもらったか話してもらいましょうか」
緩みきった場の空気が一瞬にしてピリッと張り詰める。伊勢谷は何の事か分からずも、事件の匂いを嗅ぎ取ったのか、真剣な表情になっていた。
「実は、さっき話した事には続きがあって。それが探偵さんにお願いしようと決意したきっかけでした」
今度は彼女のバッグから無個性な一通の茶封筒が取り出された。そこから写真を一枚取り出し、伊勢谷へと渡す。受け取った彼女は不思議そうな顔をしながら、写真を食い入るように見つめた。
「えっ、これって…加瀬さん?」
加瀬は黙って頷く。
「嘘!? そんな…」
僕は何が何だか分からないまま、徐に写真を覗こうとする。しかし伊勢谷が鬼の形相で写真を僕の視線から隠す。
「見るな変態!」
何も変態呼ばわりする事無いじゃないか、と口に出そうとしたその時、僕の頭の中で稲妻のような一閃が走った。あまり口に出して言いたくないが、だいたい状況は理解できた気がした。
「何か、見られたくないものを写真に撮られてしまった、という事ですか?」
加瀬は再び、静かに頷いた。異性であるーー好意を抱いていないとしてもーー僕に写真を見せる事は気が進まなかったのだ。だからわざわざ女性の知人を呼び、僕の代わりに目になってもらったという事か。
「こっちは見てもらって大丈夫です。…ごめんなさい、本当は写真を見てもらった方が情報が得られるかも知れないのに…」
「いいのいいの加瀬さん! こんな奴に気を遣う必要はないですから!」
加瀬をしっかりフォローしつつ、僕を見事に貶した伊勢谷に若干の苛立ちを覚えつつも、彼女が茶封筒から取り出した手紙に目を走らせる。
『この写真をばら撒かれたくなければ現金十万円を用意しろ。お前の自業自得だ』
これまでの手紙と同様、パソコンのワードで打ち込まれた文字をコピーした手紙なので、筆跡での判別は不可能だ。しかし、その文面から伝わる憎悪と悪意だけはどの手紙も変わらない。手紙の主は同一人物だと直感で感じた。
「…酷すぎるわ、こんなの」
遣る瀬無い怒りを込めて、伊勢谷が言う。その気持ちには同感以外し得ない。僕は身を乗り出す。
「加瀬さん、依頼を引き受けさせて頂きましょう。僕に任せて下さい」
「私も協力します、こいつだけじゃ頼りないですもんね!」
一言多いのは気にせず、伊勢谷の言葉に僕も頷く。
「ありがとう、二人とも。私も出来る事はなんでもする。だから、お願いします」
加瀬はそう言って深々と頭を下げた。
こうして僕らが迎える一大事件が、幕を開けた。




