第8話 空いた寝床
昼前から、雨が降り始めた。
最初は軒先を濡らすだけだった雨が、薪を運び終えるころには、庭に小さな水たまりを作っていた。
「今日は宿屋へ行くのをやめとけ」
ガルドが空を見上げて言った。
「この降り方じゃ、向こうも外へ出んだろう」
「……はい」
レオンは袋の紐を握り直した。
ロルフとの稽古を楽しみにしていたが、裏庭がぬかるんでいては足を動かせない。廃屋へ帰り、雨の当たらないところで練習しようと思った。
そう考えたところへ、冷たいものが頬に触れた。
軒の端から吹き込んだ雨だった。
廃屋の屋根にも、いくつか穴がある。今までは晴れていたから、気にしていなかった。
「少し、雨が弱くなるまで待ってもいいですか」
「ああ。中へ入れ」
ガルドは扉を開けた。
*
家の中には、煮た豆の匂いがしていた。
レオンは入口で靴の泥を落とした。濡れた袋を膝に載せ、椅子の端に座る。
窓の外で雨粒が跳ねた。
「帰る先は遠いのか」
鍋をかき混ぜながら、ガルドが尋ねた。
「街道の、少し先です」
「家があったか? あっちは空き家ばかりだろう」
レオンは膝の袋を見た。
嘘をついても仕方がなかった。
「誰も住んでいない家を、使っています」
鍋をかき混ぜる音が止まった。
「ひとりでか」
「はい」
ガルドが振り返る。
レオンは顔を上げられなかった。勝手に使っていることを、叱られるかもしれない。出ていけと言われたら、次の場所を探さなければならない。
「お前、いくつだ」
「十歳です」
ガルドは椅子を引き、向かいへ座った。
「家の者は、どこにいる」
レオンは袋を握った。
木剣を振る指より、今の方が強く力が入っている。紐が手のひらへ食い込んだ。
「家には、戻れません」
雨が窓をたたく。
「剣術のスキルを、授からなかったので」
声にすると、あの剣技場が目の前に戻ってきた。父の表情も、短く息を吐く音も、はっきりと思い出せる。
「家を出るように、言われました」
ガルドはしばらく黙っていた。
やがて立ち上がり、鍋の火を弱めた。
「そうか」
それだけだった。
レオンはゆっくり指を開いた。手のひらに、紐の跡が残っていた。
*
昼食を終えても、雨は弱くならなかった。
ガルドは家の裏手に続く扉を開けた。
「ちょっと来い」
小さな物置だった。
壁際には空の籠や古い道具が積まれ、奥に板張りの床がある。窓は狭かったが、雨は吹き込んでいなかった。
「この辺を片づければ、横になれる」
レオンはガルドを見上げた。
「ここで、寝ていいんですか」
「あの空き家じゃ、今夜は濡れるぞ。雨漏りした床で寝られて、風邪でもひかれちゃ困る」
「でも……」
「まず、そこの籠を寄せろ」
言われるまま、籠を持ち上げた。
埃を払い、道具を壁へ寄せる。ガルドが古い敷物を運んできて、床へ広げた。畳んだ毛布も一枚置かれる。
「しばらく使ってなかったから、干した方がいいな。今日はこれで我慢しろ」
レオンは毛布に触れた。
少し硬かった。家の寝台にあったものより、ずっと薄い。
それでも、手を離せなかった。
「ありがとうございます」
頭を下げると、ガルドは物置の入口を見た。
「それと、用があるときは、ここから呼べ。外へ回ることはない」
「……はい」
*
夕方、雨が小降りになったころ、ロルフが訪ねてきた。
肩にかけた外套から、水滴が落ちている。
「明日の薪は、いつもより多めに頼めるか。濡れた客が増えた」
「分かった。乾いてるのを持っていく」
ガルドの返事を聞いてから、ロルフはレオンに気づいた。
「いたのか。今日は無理だと思ってた」
「明日は、稽古できますか」
「晴れたらな」
レオンの足元に、木剣が立てかけてあった。ロルフはそれを見てから、奥の敷物へ目を向けた。
「ここで振るなよ」
「えっ」
「狭い。腕が戻るときに、棚へ当たる」
レオンは物置を見回した。
寝る場所はあっても、木剣を振る広さはない。毛布がうれしくて、そこまで考えていなかった。
「はい。ここでは、振りません」
「振らない晩があっても、覚えたことはなくならん。今日は寝ろ」
ロルフはそう言って、濡れた外套を羽織り直した。
*
夜になると、雨がまた強くなった。
レオンは毛布を胸まで引き上げた。すぐ横の壁に、木剣を立てかけてある。
目を閉じても、なかなか眠れなかった。
今夜は何も繰り返していない。じっと横になっていると、その間にも稽古ができるはずなのに、と考えてしまう。
レオンは光の板を呼び出しかけ、手を止めた。
眠っている間の動きは、周りを見てくれない。
棚にぶつかっても、毛布を踏んでも、目覚めるまで気づかないかもしれない。せっかく用意してもらった場所で、何かを壊したくなかった。
毛布へ顔をうずめる。
廃屋の硬い床とは違い、背中が冷えなかった。雨音も、屋根を通して遠くに聞こえる。
壁の向こうで、ガルドが戸締まりをする音がした。
「火は消した。冷えるようなら呼べよ」
「はい。おやすみなさい」
「おう」
足音が離れていく。
レオンは木剣から手を離し、両手を毛布の中へ入れた。
今夜は、身体を動かさずに眠る。
そう決めて目を閉じると、思っていたよりも早く、眠気がやってきた。




