第7話 見てから動く
「今日は、剣を振らなくていい」
宿屋の裏庭で、ロルフが言った。
レオンは、ほどきかけた木剣の紐を押さえた。
「足の練習ですか」
「そうだ。まず、そこに立て」
ロルフが地面に線を引いた。レオンがその前へ立つと、ゆっくり近づいてくる。
一歩、下がる。
相手はまだ進んでくる。レオンはもう一歩下がり、足を落ち着けた。
今朝、廃屋で確かめたときと同じだ。踵を踏まない。靴底も引きずらない。
「そのまま」
ロルフが止まった。
レオンも足を止める。
「昨日より、揺れなくなったな」
ほっとして息を吐いたところで、ロルフがまた近づいた。
レオンは慌てて下がった。足を引くより先に、上半身が後ろへ反ってしまう。
ロルフの手が伸び、肩を軽く押さえた。
「今のは倒れるぞ」
「……はい」
足がもつれなくなっても、急に来られると動けない。
レオンは両足を置き直した。
*
次にロルフは、動かなかった。
近づいてくると思って待っていたレオンは、相手の足を見た。肩を見た。顔へ目を戻したところで、ロルフが小さく笑った。
「何を見ればいいか、迷ってるな」
「分かるんですか」
「顔が忙しい」
レオンは頬に手をやりかけ、慌てて下ろした。
「犬のときも、そうでした。足を見ると、口が見えなくなって……」
「人と犬じゃ違うが、近くの一か所ばかり見てると、ほかが分からなくなるのは同じだ」
ロルフは自分の胸を指した。
「ひとまず、この辺りを見ておけ。靴の先を追いかけなくていい」
言われた場所へ目を向ける。
ロルフが足を動かした。じっと見ていなくても、身体が近づいてくるのは分かった。
レオンは一歩下がる。
「よし。次も同じだ」
ロルフが元の場所へ戻った。
もう一度来る。そう思って身構えると、相手は片手を上げただけだった。
レオンの足が、後ろへ動いた。
「まだ近づいてないぞ」
耳まで熱くなる。
「次は来る、って思いました」
「思うのはいい。だが、決めつけて動くな」
ロルフは手を下ろした。
「相手を見てからでいい。今日は、ゆっくりやってるんだからな」
*
近づいたら下がる。止まったら止まる。
それだけのことなのに、レオンは何度も間違えた。
来ると思って先に動き、動かないと思って待ちすぎる。三回続けてうまくできたあと、四回目には足を引くのを忘れた。
光の板があれば、もっときれいに動ける。
一瞬、そう考えた。
けれど、そこへ何を書けばいいのだろう。
一歩下がる。それなら、できる。だが、ロルフがまだ動いていないときにも下がり続けてしまう。
相手がいつ近づくか、板は教えてくれない。
「難しいか」
ロルフに聞かれ、レオンはうなずいた。
「足を動かすだけなら、できるんです」
「ああ。だから今度は、動かすときを練習してる」
レオンは相手の胸へ目を戻した。
革の上着には、縫い直した跡があった。そこばかり見ないようにすると、左右の腕もぼんやり視界に入る。
身体が近づいた。
足を引く。
ロルフは止まり、今度はゆっくり離れた。
レオンは追わず、その場に立っていた。
「そうだ」
短い声が、裏庭に響いた。
*
休憩のとき、宿屋の主人がロルフを呼びに来た。
食堂に客が増え、裏に積んだ薪を少し運んでほしいらしい。レオンも立ち上がった。
「僕がやります」
「稽古の途中だろう」
「休んだので、大丈夫です」
籠へ薪を入れ、厨房へ運ぶ。
入口へ近づいたとき、向こうから大きな鍋を抱えた女の人が出てきた。
レオンは足を止めた。
前なら、通れる隙間を探して身体をねじっていたかもしれない。今日は一歩下がり、籠を持ったまま待った。
「ありがとう。熱いから、助かったよ」
鍋から白い湯気が上がっていた。
レオンは女の人が通り過ぎてから、厨房へ入った。
薪を置いて戻ると、ロルフが入口のそばに立っていた。
「今のは、ちゃんと見てたな」
「え?」
「鍋が来たから、下がった。誰も来てないのに、下がったりはしなかったろ」
レオンは厨房の方を振り返った。
「……はい」
「剣を持っても、同じように見られるといいな」
さっきまで、できる気がしなかった。
けれど、鍋を運ぶ人を避けるときは、いつ動けばいいかを数えたりしなかった。ただ、ぶつからないように下がっただけだ。
レオンは裏庭へ戻った。
「もう一度、お願いします」
*
その夜、レオンは廃屋で木剣を構えた。
誰も立っていない正面を見つめる。
下がる足は、昨夜と同じように動いた。だが、昼の稽古とはやはり違った。いつ下がるかを、自分で決めている。
ロルフが近づいてきたときのことを思い出し、一度、足を引く。
そのまま止まった。
次が来るまで待つ練習は、ひとりではうまくできそうになかった。
「明日も、お願いしよう」
レオンは構えを解いた。
眠っている間には、足の動きを繰り返せる。だから昼は、ロルフが見てくれる時間を大事にしたい。
パンを食べ、少し休んでから、光の板へ文字を浮かべる。
『一歩下がって元の位置に戻る』
身体が動き始めた。
レオンは顔を上げたまま、足の感触を確かめた。
足元を見なくても、踵を踏まずに戻れる。昼間、相手を見ることに集中できたのは、そのおかげかもしれない。
次にロルフが近づいてきたら、最後まで顔を伏せずにいよう。
レオンはそう決めて、目を閉じた。




