第5話 剣を見てくれた人
朝、レオンは足の動きを止めた。
光の板から文字を消し、床を見下ろす。昨夜、立っていた場所には、靴底で埃を払った跡が残っていた。両足は、その中に収まっている。
「ずれてない」
眠っている間も、同じ場所を行き来できていたらしい。
レオンは木剣を構え直した。今度は自分で、一歩下がる。
後ろの足を引き、前の足を寄せる。踵はぶつからなかった。元の位置へ戻るときも、剣先を正面へ向けていられる。
少し速く動いてみた。
やはり、足はもつれなかった。
これなら、犬を前にしたときも転ばずに済むかもしれない。
そこまで考えて、レオンは木剣を下ろした。
動ける場所が後ろにあるか、確かめることも忘れてはいけない。あのとき背中に触れた荷車の硬さは、まだ覚えていた。
*
「今日は届け物だ」
朝食のあと、ガルドが小さな荷車を引き出した。
荷台には、束ねた薪が積まれている。
「宿屋まで運ぶ。着いたら下ろすのを手伝ってくれ」
「はい」
レオンが袋を背負うと、ガルドはくくりつけられた木剣を見た。
「それも持っていくのか」
「……置いていく場所が、ないので」
「そうか」
ガルドは荷車の持ち手を握った。
「じゃあ、落とさんようにな」
集落の街道沿いにある宿屋には、馬車が二台止まっていた。入口の前で馬が水を飲み、開いた窓からは焼いた肉の匂いが流れてくる。
レオンたちは裏へ回り、軒下に薪を積んだ。
最後の束を下ろして振り返ると、井戸のそばに男が立っていた。
革の上着を着て、腰には剣を提げている。父や兄たちのものほど飾りはなかった。柄に巻かれた革は黒ずみ、鞘には細かな傷がある。
「その木剣、お前のか」
男に尋ねられ、レオンはうなずいた。
「はい」
「ずいぶん使ってるな」
男は井戸の縁に腰を下ろした。
「俺はロルフ。商人の護衛で来てる。お前も剣を習ってるのか」
「前は、習ってました」
「今は?」
「ひとりで振ってます」
ロルフは、木剣とレオンの顔を交互に見た。
「少し、見せてみろ」
レオンはすぐには動けなかった。
剣技場で父に見られていたときのことを思い出す。失敗すれば眉をひそめられ、うまくできても、次はもっと速くと言われた。
ガルドが荷車の縄をまとめながら、口を開いた。
「嫌なら、無理にやらんでいいぞ」
「……やります」
レオンは袋を下ろし、木剣をほどいた。
*
人の通らない裏庭で、木剣を構える。
スキルは使わなかった。
振り上げ、振り下ろす。剣先を止めてから、もう一度。
ロルフは黙って見ていた。
「足は動かせるか」
「少しなら」
レオンは一歩下がり、元へ戻った。
「もう一度」
同じように動く。
ロルフは顎に手を当てた。
「素振りは、よくやってるな」
レオンの指に、少し力が入った。
「分かるんですか」
「毎回、同じところを通ってる。足も、下がるときは悪くない」
胸の奥が温かくなった。
眠っている間の稽古が、自分以外の目にも分かる。そのことが、たまらなくうれしかった。
「じゃあ、俺が近づいたら下がってみろ」
ロルフは剣を抜かず、数歩離れたところに立った。
レオンが構えると、ゆっくり近づいてくる。
一歩、下がった。
ロルフは止まらない。
レオンの前の足が、元の位置へ戻りかけた。
「そこで戻るのか?」
「あ……」
慌てて止まったところへ、ロルフの指が伸びた。木剣の先を横へ押され、そのまま額を軽く触られる。
レオンは動けなかった。
「今、俺の前へ戻ってきたぞ」
「昨日から、下がって戻る練習をしていて……」
「なるほどな」
ロルフは手を引いた。
「ひとりの稽古なら、それでいい。だが相手が前に来てるなら、戻らずにもう一歩下がることもある」
レオンは床へ視線を落とした。
廃屋の中で壁にぶつからないよう、戻る動きを繰り返していた。それが、相手の前でも出てしまった。
「今度は、俺が止まるまで下がれ。後ろは空いてる」
レオンは振り返って確かめた。
それから、もう一度構える。
ロルフが近づく。一歩下がり、足を落ち着ける。まだ近づいてくるので、もう一歩。
三歩目で、ロルフが止まった。
レオンも足を止めた。
「そうだ」
短い言葉だった。
けれど、レオンは顔を上げた。
*
「次は、俺を木剣で触ってみろ」
ロルフが、落ちていた細い枝を拾った。
「そのまま振っていい。頭は狙うなよ」
レオンはうなずき、肩へ向けて木剣を振った。
届く前に、枝で横から払われた。
もう一度振る。今度は、ロルフが半歩下がった。木剣は上着の手前を通り過ぎる。
「遠かったな」
レオンは一歩近づいた。
振り上げたところで、枝の先が胸に触れた。
「今度は、剣より先に身体が入った」
レオンは木剣を下ろした。
素振りなら、何度でもできる。足も、今朝は思いどおりに動いた。それなのに、人がひとり立っているだけで、何もかもうまくいかなくなる。
「……全然、当たりません」
「最初から当てられたら、護衛の仕事がなくなる」
ロルフは笑い、枝を下ろした。
「今は、お前の剣がどこまで届くか覚えろ。近づきすぎず、離れすぎずだ」
枝の先で、地面に短い線を引く。
「そこに立ってみろ」
レオンが線の前に立つと、ロルフは少し離れて、枝を横に差し出した。
「先端に届くところで、木剣を止めてみろ」
レオンは振り上げた。
ゆっくり下ろすと、剣先は枝の手前で止まった。
「あと、少しだな」
靴をずらし、もう一度。
今度は、木剣の先が枝に触れた。
「そこだ。腕だけじゃなく、足の場所も覚えとけ」
レオンは自分の足と、木剣の先を見比べた。
覚えたいことが、また増えた。
*
宿屋の中から、ロルフを呼ぶ声がした。
「出発ですか」
「いや、荷の確認だ。ここには、あと何日かいる」
ロルフは枝を脇へ置いた。
「仕事が済んだら、また来い。暇なら見てやる」
「いいんですか」
「その代わり、薪運びをさぼるなよ」
「さぼりません!」
返事をすると、そばで待っていたガルドが笑った。
帰り道、レオンは空の荷車の隣を歩いた。
「うれしそうだな」
ガルドに言われ、頬に手を当てる。
自分では気づかなかった。
「……また、剣を教えてもらえるので」
「そうか」
荷車の車輪が、小石を踏んで跳ねた。
レオンは持ち手の横へ回り、ガルドと一緒に押した。行きよりも軽い荷車が、坂を上っていく。
今日、木剣は一度もロルフに届かなかった。
それでも、次に何を練習すればいいかは分かった。
レオンは歩きながら、枝の先に触れたときの距離を、何度も思い出していた。




