第4話 一歩ぶんの稽古
レオンは片足を引き、そこで止まった。
床に置いた木片が、少し遠くなっている。木剣を構えたまま元の位置へ戻り、もう一度、同じ足を引いた。
今度は、後ろの踵を踏んでしまった。
「……これじゃ、転ぶ」
犬に近づかれたときも、足がもつれかけた。剣を振る練習は毎日していたのに、下がりながら構えるだけで、こんなに難しい。
レオンは木剣を床に置いた。
まず、足だけでやってみる。歩くときのように足を交差させず、後ろの足を引き、前の足を寄せる。広がりすぎた歩幅を直しながら、何度か繰り返した。
剣技場では、家庭教師に足の位置を直されることがあった。
そのときは、早く剣を振りたかった。どうして同じ立ち方ばかり確かめるのだろうと、思ったことさえある。
今なら、少し分かった。
足元が崩れると、剣を相手へ向けておくこともできなくなるのだ。
ようやく踵をぶつけずに下がれたところで、レオンは光の板を呼び出した。
『一歩下がる』
文字が浮かぶ。
身体が後ろへ動いた。
「できた」
そう言った直後、もう一歩、下がった。
さらに一歩。
「待っ――」
レオンは慌てて文字を消した。背中のすぐ後ろに、廃屋の壁があった。
振り返り、壁を見上げる。眠ったまま続けていたら、すぐにぶつかっていた。
「同じところに戻らないと、続けられないんだ」
木剣の素振りは、振り下ろせば元の構えへ戻っていた。けれど、一歩下がった身体は、下がった場所に残る。
レオンは光の板を見つめた。
細い線は、一本だけだ。
下がる動きのあとに、別の動きを書き足せないか試してみた。けれど、二本目の線が現れることはなかった。
文字を消し、床に座り込む。
やりたいことが見つかっても、すぐにできるわけではないらしい。
*
翌朝、レオンはいつもの家へ向かった。
結局、昨夜も眠っている間は木剣を振った。足の動きは、今朝、自分で少し練習しただけだ。
家の裏では、白髪の男が薪を束ねていた。
「おはようございます」
「おう。よく眠れたか」
「はい」
答えてから、レオンは男の顔を見た。
「あの。お名前を、聞いてもいいですか」
毎日世話になっているのに、まだ知らなかった。
男は縄を引く手を止めた。
「ガルドだ」
「僕は、レオンです」
「そうか。じゃあレオン、今日はこいつを運んでくれ」
ガルドは束ねた薪を軽くたたいた。
呼ばれた名前が、少しくすぐったかった。
薪を持ち上げ、軒下へ運ぶ。重さを支えようとして、自然と足が開いた。狭く立ったまま持ち上げたときより、身体がぐらつかない。
レオンは足元を見た。
「どうした」
「いえ……持ちやすい立ち方が、あるんだなって」
「そりゃある。足をそろえて重いものを持てば、ひっくり返るぞ」
ガルドは次の束に縄をかけた。
レオンはもう一度、足を開いて持ち上げた。腕だけで頑張るよりも、ずっと楽だった。
薪を置いて戻る途中、昨日の犬が出た道へ目を向ける。
ガルドも、その視線を追った。
「今朝は見かけなかった。だが、しばらくあの辺りへひとりで行くなよ」
「はい」
レオンはうなずいた。
犬の姿がないことを確かめてから、次の薪を取りに戻った。
*
仕事が終わると、ガルドが小さな麻袋を持ってきた。
「持って帰れ」
中には、夕食のパンと一緒に、小さな銅貨が二枚入っていた。
「お金……?」
「昨日と今日のぶんだ。飯だけじゃ、入り用のものも買えんだろう」
レオンは銅貨をつまみ上げた。
家にいたころ、買い物は使用人がしていた。代金を払うところを見たことはあっても、自分で働いて受け取ったことはない。
「いいんですか」
「働いたろうが」
ガルドはそれだけ言って、空になった籠を片づけ始めた。
レオンは銅貨を麻袋へ戻した。落とさないよう口を結び、着替えの袋の奥へしまう。
「ありがとうございます。明日も来ます」
「斧を拭いてから帰れよ」
「はい!」
レオンは布を取りに走った。
*
廃屋へ戻ると、まず床の木片を拾った。
昨夜、一歩下がるだけでは、壁にぶつかると分かった。だからといって、足の稽古を諦めるつもりはなかった。
レオンは床に二つ、木片を置いた。
ひとつは最初に立つ場所。もうひとつは、一歩下がった場所だ。
木剣を持たず、二つの印の間を動いてみる。
下がる。戻る。
もう一度、下がる。戻る。
何度か繰り返すと、戻るときの足が引っかかった。足元を見すぎて、身体まで前へ倒れていた。
顔を上げ、歩幅を少し狭くする。
下がる。戻る。
今度は、同じところへ戻れた。
レオンは光の板を呼び出した。
『一歩下がって元の位置に戻る』
線の上に、文字が浮かんだ。
息を止めて待つ。
後ろの足が動いた。前の足がそれに続く。身体が下がり、今度は前へ動き出した。
両足が、最初の木片のそばへ戻る。
そのまま、もう一度、身体が下がった。
「……できた!」
レオンは文字を消した。
線が二本なくても、今の動きをまとめて思い浮かべればよかったのだ。
ただ、喜んですぐに眠る気にはなれなかった。何度も繰り返したら、少しずつ場所がずれるかもしれない。
床の木片を見ながら、もう一度動かす。
十回。二十回。
靴の位置は、同じところへ戻っていた。
それを確かめてから木剣を手に取り、構えた状態でも試した。腕の高さが揺れて、剣先が下がる。いったん止め、握り方を直す。
今度は、ゆっくり。
下がっても、戻っても、正面へ剣先を向けておく。
納得するまでには、日が沈むころまでかかった。
*
パンを食べ終えると、レオンは廃屋の中央に立った。
壁までの距離を確かめ、足元の木片を脇へよける。何も踏まずに動けることを確かめてから、木剣を構えた。
今夜は、素振りをしない。
光の板に文字を残すと、身体がゆっくりと動き始めた。
一歩下がり、元へ戻る。
剣を振っていたときより、ずっと地味な動きだった。風切り音も鳴らない。暗い廃屋に、靴底が床をこする音だけが続いた。
レオンは正面を見つめた。
昨日は、下がった先に荷車があった。そこで動けなくなった。今度、同じことがあったら、どうすればいいのだろう。
まだ、分からなかった。
それでも、踵を踏まずに一歩下がれるようにはなった。
レオンは木剣を握り直した。
次に怖い思いをしたとき、この一歩を使えるように。
床をこする音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。




