第3話 素振りでは届かない
翌朝、レオンは木剣を振る音で目を覚ました。
光の板から文字を消し、腕を止める。昨夜より軽く振れる気がしたが、握っている木剣の重さは変わらない。両手で構え直し、自分で一度、振り下ろした。
剣先が、思ったところを通った。
もう一度振っても、同じだった。
「……よし」
レオンは木剣を袋にくくりつけた。昨日の男を待たせないよう、早足で集落へ向かった。
*
「おはようございます!」
家の裏へ回ると、男はすでに丸太を運び出していた。
「早いな。先に飯を食っていけ」
差し出されたパンを見て、レオンは足を止めた。
「まだ、何もしてません」
「腹が減ったまま斧を振られちゃ、こっちが落ち着かん」
男はそう言って、牛乳の入った器も置いた。
レオンは両手でパンを受け取った。昨日よりもゆっくり食べるつもりだったのに、気づくと最後のひと口をのみ込んでいた。
仕事は昨日と同じだった。
割られた薪を運び、細い丸太を斧で割る。節のあるものは男に任せた。フルオートで斧を振り下ろし、割れたら止める。次の丸太を立てて、また動かす。
途中で男が、切り株のそばにしゃがんだ。
「少し待て」
レオンは文字を消した。男は割れ残った木片を拾い、脇へよける。
「よし、いいぞ」
その声を待ってから、レオンは斧を上げた。
ひとりで剣を振っているときとは違う。周りを見ながら使わなければならない。光の板にばかり目を向けないよう、レオンは男の立つ場所も確かめた。
昼過ぎには、運び出された丸太がすべて薪になった。
「今日はここまでだな」
男が腰を伸ばした。
レオンは斧を返し、袋を取りに戻った。まだ日は高い。廃屋に帰れば、夕方まで稽古ができる。
「お前、剣を習っていたのか」
袋にくくりつけた木剣を見て、男が尋ねた。
「はい。少しだけ」
「いつも持ってるからな。大事なものなんだろう」
レオンは木剣の柄に触れた。
家にいたころ、何年も使ったものだ。握る部分だけ色が濃くなり、指に沿って角がすり減っている。
「……これしか、持ってこられなかったので」
男はしばらく黙っていた。それから家の中へ入り、小さな包みを持ってきた。
「夕飯だ。明日も頼む」
「ありがとうございます」
レオンは頭を下げた。
何も聞かれなかったことに、少しだけほっとした。
*
集落を出たところで、細い鳴き声が聞こえた。
街道脇に、小さな荷車が止まっている。その車輪の陰で、レオンより幼い女の子が身を縮めていた。
その前に、犬がいた。
大きな灰色の犬だった。毛がところどころ抜け、腹が細くくぼんでいる。低く唸りながら、女の子の手元を見ていた。
女の子は、布に包んだパンを胸に抱えている。
「動かないで」
レオンの声に、女の子が顔を上げた。
犬も振り向く。むき出しになった歯を見て、レオンの足が止まった。
剣技場で犬を相手にしたことはない。木剣を向けられたことならあったが、その相手は、こちらが転べば待ってくれる大人だった。
犬は待ってくれそうになかった。
レオンは袋を下ろし、木剣をほどいた。
「こっちへ来て。ゆっくり」
女の子が一歩動いた。犬がそちらへ首を向ける。
レオンは慌てて前に出た。
「こっちだ!」
声を張ると、犬が低く身をかがめた。
木剣を握る手に汗がにじむ。
毎晩、何千回も振っている。昨日も今朝も、まっすぐ振れた。それを思い出し、光の板を呼び出した。
『木剣を振る』
腕が上がった。
犬が横へ動く。
振り下ろされた木剣は、何もないところを通った。
「あっ……!」
腕が戻り、次の一振りに入ろうとする。その間にも犬は動いていた。正面にいたはずの灰色の身体が、右側へ回り込んでくる。
レオンは文字を消した。
木剣を引き戻し、犬へ向き直る。靴の裏が小石に滑り、危うく尻もちをつきかけた。
剣先を向けるだけで精いっぱいだった。
振る場所に、相手がいてくれるわけではない。
「お兄ちゃん……」
背中のすぐ後ろで、女の子の声がした。
レオンは振り返らず、片足を引いた。女の子を背にかばいながら、もう一歩、下がる。
犬が近づいてくる。
その足元を見ていると、歯が見えなくなった。顔を見ると、今度は足の動きが分からない。どこを見ればいいのかさえ、レオンには分からなかった。
背中が荷車に触れた。
これ以上は下がれない。
レオンは木剣を両手で握り、剣先を犬へ突き出した。犬が鼻先を引く。近づけば木剣に触れる距離だった。
「来るな……!」
声が震えた。
犬が左へ寄る。レオンも剣先を左へ動かす。右へ回ろうとすれば、そちらへ向けた。
大きく振って外せば、また隙ができる。今は、近づけないようにするしかなかった。
「何をしとる!」
突然、怒鳴り声が響いた。
薪割りの男が、棒を手に走ってきた。地面を強くたたく音に、犬がびくりと跳ねる。男がもう一度声を張ると、犬は身をひるがえし、道脇の茂みへ逃げ込んだ。
草の揺れる音が遠ざかっていく。
見えなくなってからも、レオンは木剣を下ろせなかった。
「もう大丈夫だ」
肩に手が置かれた。
レオンはそこで初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。
*
女の子は、近くの畑にいた母親へ引き渡された。
何度も礼を言われたが、レオンはうまく返事ができなかった。男が来なければ、どうなっていたか分からない。
道端に置いた袋を拾うと、指がまだ震えていた。
「怪我はないな」
「……はい」
「助かったよ。あの子がひとりでいるのに、気づかなかった」
男の言葉に、レオンは首を横に振った。
「僕、追い払えませんでした」
「噛まれずに済んだ。それで十分だ」
レオンは木剣を見下ろした。
きれいに振れるようになった。それがうれしかった。昨日より強くなったつもりでいた。
けれど、犬が少し横へ動いただけで、剣は当たらなかった。
「……剣を振るだけじゃ、駄目なんですね」
男は答えず、レオンが木剣を袋へ戻すのを待っていた。
*
廃屋へ帰ってから、レオンは床に小さな木片を置いた。
それを相手に見立て、木剣を構える。正面から一度振り、立つ場所を変えてもう一度振った。
足が近すぎると、腕が窮屈になる。遠すぎると、剣先が届かない。
木片は動かない。それでも、場所を変えただけで振りにくくなった。
何度か繰り返すと、息が弾んだ。フルオートを使わずに動いた脚が重くなってくる。
レオンは腰を下ろし、膝を抱えた。
犬の歯を思い出すと、まだ怖かった。あのとき、背中で聞こえた女の子の声も、耳に残っている。
しばらく休んでから、レオンは立ち上がった。
木剣を構え、片足を引く。足元がもつれないよう、ゆっくりと元へ戻す。
もう一度、足を引いた。
今夜、眠っている間に繰り返す動きを決めるまで、レオンは何度も自分の足元を確かめた。




