第2話 眠っていた間の一万回
朝の光が、廃屋の床を照らしていた。
レオンは光の板から文字を消した。頭上へ戻りかけていた木剣が止まる。ゆっくりと腕を下ろし、指を開いた。握り続けていたはずなのに、手のひらには新しい傷もできていなかった。
「本当に、一晩中……?」
眠る前と同じ場所に、両足がある。床の埃には、靴の形がくっきりと残っていた。
レオンは木剣を握り直した。今度はスキルを使わず、自分の意思で振り上げる。
振り下ろした瞬間、短い風切り音が鳴った。
「あれ?」
もう一度。同じ音がした。
これまでの素振りでは、剣先が左右にぶれていた。まっすぐ振ろうとすると肩に力が入り、何度も家庭教師に注意された。それが今は、振り下ろす場所を腕が覚えているようだった。
試しに十回続けてみる。最後の一振りまで、剣先はほとんど同じところを通った。
「眠ってる間の稽古も、身についてるんだ」
レオンは木剣を見つめた。
昨夜は、一度振ってから次に振るまで、三つほど数える時間があった。一分で二十回。一時間なら千二百回。眠っていた時間を考えると――。
「一万回、くらい?」
口にしてから、息をのんだ。
家にいたころは、腕が上がらなくなるまで振っても、そんな数には届かなかった。それを自分は、一晩で終えている。
もっと確かめたい。木剣を構え直したところで、腹が大きく鳴った。
レオンは腕を下ろした。
昨日、家を出てから何も食べていない。袋を開いても、入っているのは着替えだけだった。底まで探ったが、銅貨の一枚も出てこなかった。
*
廃屋を出て街道を歩くと、小さな集落が見えた。
井戸のそばで水を飲ませてもらい、食べ物と引き換えにできる仕事がないか尋ねる。畑仕事は足りていると言われ、荷運びは子供には任せられないと断られた。
三軒目の家の裏で、レオンは足を止めた。
薪が積まれている。その脇で、白髪の男が切り株に立てた丸太へ斧を振り下ろしていた。
「あの。何か、手伝えることはありませんか」
男は斧を止め、振り返った。
「手伝い?」
「食べ物を、少し分けてもらえれば」
男の目が、レオンの袋と木剣を順に見た。何か聞きかけたようだったが、代わりに足元の籠を指さした。
「割った薪を、そこの軒下へ運んでくれ。終わったら飯にしよう」
「はい!」
レオンは袋を置いた。
薪を籠に詰め、軒下まで運ぶ。最初は持ち上がったが、往復するうちに腕が重くなった。三度目には、途中で籠を下ろして休まなければならなかった。
一晩中、剣を振っても平気だった腕だ。けれど今は、いつものように疲れている。
「無理に詰めるな。半分ずつでいい」
「……はい」
レオンは薪を減らした。
フルオートで動いているときだけ、疲れないのだろうか。籠を持ち上げながら考えたが、ここで試す気にはなれなかった。歩く先には井戸もあれば、人も通る。昨夜のように同じ動きを繰り返したら、どこへ行ってしまうか分からない。
仕事を終えたころには、額に汗が浮いていた。
男が持ってきたのは、パンと豆の入った温かいスープだった。レオンは礼を言い、両手で器を受け取った。ひと口飲むと、空っぽだった腹の中が温まった。
「うまいか」
レオンはうなずいた。返事をしようとしたら、喉が詰まった。
昨日の朝までは、食事が出てくることを当たり前だと思っていた。
男は何も言わず、パンをもう一切れ置いてくれた。
*
食事のあと、レオンは斧の前に立っていた。
「薪割りも、やらせてもらえませんか」
男は少し迷ってから、小ぶりな斧を持ってきた。
「足を開け。外したとき、刃の下に足を置くなよ」
持ち方と立つ場所を教わり、細い丸太を切り株に立てる。レオンは斧を振り上げた。
刃は丸太の端に当たり、浅く食い込んだだけだった。
木剣とは重さが違う。引き抜いて、もう一度。今度は中心を狙いすぎて腕が縮こまった。
「当てる前に止めようとするな。下まで振れ」
レオンはうなずき、息を整えた。
昨夜から繰り返してきた、振り下ろす感覚を思い出す。刃の重さに逆らわず、腕を下ろした。
乾いた音がして、丸太が二つに割れた。
「そうだ。それでいい」
足元の薪を見て、レオンは小さく笑った。
次の一本を立ててもらう。今の動きを忘れないうちに、光の板を呼び出した。
『斧を振り下ろす』
文字を浮かべると、両腕が動いた。
斧が上がり、丸太の真ん中へ落ちる。割れた薪が転がった。腕が再び上がる前に、レオンは文字を消した。
「……きれいに割ったな」
男の声に、レオンは顔を上げた。
「もう一本、いいですか」
次も割れた。その次も。
ただし、丸太を置き直すたびに止めなければならない。節のある一本では刃が途中で止まり、男に手伝ってもらった。同じように振れば、何でも割れるわけではなかった。
それでも、十本を割り終えた腕に疲れはなかった。
「明日も来られるか」
斧を返すと、男が言った。
「薪を運んで、細いのを割ってくれ。飯は出す」
「来ます!」
思ったより大きな声が出た。男が笑い、レオンもつられて笑った。
*
日が暮れる前に、レオンは廃屋へ戻った。
袋には、男にもらった夕食のパンが入っている。明日、行く場所もできた。
パンを少しずつ食べてから、木剣を手に取る。
今日、薪を割れたのは、最初に自分でうまく振れたからだ。失敗した振り方を繰り返していたら、きっと丸太は割れなかった。
レオンは足の位置を確かめた。肩の力を抜き、木剣を振る。剣先がぶれたので、もう一度。納得できる一振りができるまで、何度か繰り返した。
それから、光の板に文字を浮かべた。
『木剣を振る』
腕が動き始める。狙った場所を通る剣先を見届けて、レオンは目を閉じた。
父は、剣術を受け継げないと言った。
その言葉を思い出すと、まだ胸が痛む。けれど今朝、自分の剣は昨日よりもまっすぐに振れた。
明日の朝は、どうなっているだろう。
初めて目覚めるのを楽しみにしながら、レオンは眠りに落ちた。




