第29話 木剣に残った傷
木剣の先に、細い筋が入っていた。
レオンが気づいたのは、トーマとの稽古を終え、柄の紐を拭いていたときだった。指を滑らせると、先端近くで小さなささくれが引っかかった。
「それ、いつからだ?」
トーマが隣からのぞき込む。
「分からない。昨日、見たときは……」
言いかけて、レオンは口を閉じた。
昨日も柄は拭いた。だが、剣先までよく見ただろうか。
庭で向きを変える稽古を始めてから、何日もたっている。打ち合うたびに、木剣には小さなへこみが増えていた。
「叔父さんに見せよう」
トーマは自分の木剣を下げ、裏口へ向かった。
*
宿屋の主人は、布で木剣の土を払った。
窓際へ持っていき、光へかざす。レオンも横に立った。
「ここだけなら削れば済むがな」
主人の指が、ささくれの下をたどった。
木目に沿って伸びる筋は、レオンが思ったより長かった。
「中まで割れていたら、打ち合った拍子に欠けるかもしれん。今日は、これで合わせるのはやめておけ」
レオンは木剣を受け取った。
家を出るときに持たされた、使い古しの一本だった。
剣技場の端で、一人で振っていたころから使っている。廃屋でも、ガルドの庭でも、眠っている間も、この剣を握っていた。
「まだ、振るだけなら使えますか」
「欠片が飛ぶようなら、それもやめた方がいい。ガルドにも見てもらいな」
主人は少し声を緩めた。
「よく使ったな」
レオンは、うなずくまでに少しかかった。
*
ガルドも、傷を見て同じことを言った。
「次を用意した方がいい」
「はい」
返事をして、レオンは納戸へ戻った。
着替えの袋の底から、小さな麻袋を出す。銅貨を布の上へ並べた。
薪を運んだ日。水汲みを多く手伝った日。宿屋の片づけが長引いた日。
一枚ずつ見ても、いつの仕事でもらったものかまでは分からない。それでも、ここにあるお金は、村で働いて貯めたものだった。
柄に巻く紐を買ったときより、数は増えている。
木剣は、いくらするのだろう。
レオンは数え直し、麻袋へ戻した。
紐を買う前は、巻き直せばずっと使える気がしていた。握るところだけでなく、木そのものも傷むのだと、今になって気づく。
レオンは古い木剣を膝へ載せた。紐はほどけていない。町で選んだ平たい紐は、まだ役に立っていた。
全部が一度に駄目になったわけではないのに、打ち合うためには使えなくなる。
借りた物を返すときにも、同じように端まで見ようと思った。
戸口にいたガルドが、手元を見た。
「町なら、稽古用のものを売ってるだろう。三日後に荷を出す。そのときに見てくるか」
「一緒に行っても、いいですか」
「荷下ろしを手伝ってくれりゃ助かる」
レオンは、今度はすぐにうなずいた。
*
翌日の昼、レオンは手ぶらで荷車置き場に立った。
木剣は納戸へ置いてきた。傷を気にしながら振るより、今できる稽古をしようと思ったのだ。
光の板には、左右へ向き直り、下がって戻る動きを残す。
動かす前に、自分の足で一巡した。
両手が軽い。
いつも木剣の重さを受けていた指が、何もつかまずに曲がっていた。
レオンは一度手を開き、肩を下ろした。
フルオートを動かすと、足は覚えた順に進んだ。眠っている間にも練習できる。それは、剣を持っていなくても変わらない。
けれど、木剣がなくても同じ気持ちでいられるかというと、そうではなかった。
目を閉じても、傷の入った先端が浮かんだ。
あの家から持って出たものは、着替えと、あの一本だけだった。
レオンはしばらくして動きを止めた。
入り口へ腰を下ろし、開いた手を眺めた。今の自分なら、別の木剣を持っても振り方は分かる。足の置き方も、全部あの木の中へ入っているわけではない。
そう考えてから、もう一度立ち上がった。
*
夕方、トーマが二本の木剣を抱えて来た。
「叔父さんが、古いのを出してくれた。新しいのを買うまで使えよ」
差し出された一本を、レオンは両手で受け取った。
柄が少し太い。構えると、先端がいつもより下がった。
「重い?」
「少し。振ってみてもいい?」
互いに離れてから、レオンはゆっくり振った。
止めたいところより、少し先まで剣先が流れる。
握り直して、もう一度。次は小さく振って、構えへ戻す。
「いつもの稽古、そのままじゃ使えないな」
光の板を出しかけたレオンは、意識を戻した。
借りた木剣に合わせて、先に自分で確かめる必要があった。
トーマは少し離れたところで待ち、こちらが構えると、自分も木剣を上げた。
「今日は、ゆっくりな」
「うん。ありがとう」
打ち合うと、手に伝わる感触まで違っていた。
何度か合わせたところで、レオンは止まった。借りた剣の先まで目を通し、傷がないことを確かめる。
トーマもつられて、自分の木剣を見た。
小さなへこみは、そちらにもあった。二人は指で触れ、木目に沿った割れがないか確かめた。傷を増やさずに稽古を続けるのは難しくても、気づかないまま使うことは減らせるはずだった。
「終わってからだけじゃ、駄目だったな」
「始める前も、見ようと思って」
二人は剣先を下ろしたまま、柄や木目を順に調べた。
町へ行くまで、あと二日ある。
レオンはその間に、新しい一本に欲しい長さや重さを、少しでも知っておこうと思った。




