第16話 逃げ道を作る剣
角兎は、庭の真ん中で身を低くしていた。
レオンの右側には建物があり、左側には倒れた籠がある。背後は空いているが、獣の向こうにはトーマと菜園の男がいた。
逃げたいのに、行く先を塞がれているのだろうか。
レオンには分からなかった。ただ、ガルドの声は、はっきり聞こえた。
「トーマ、こっちへ寄れ。柵の方を空けろ」
ガルドは熊手を横に持ち、建物側へ回った。
菜園の男も鍬を動かす。角兎が飛び込んできた柵の切れ目へ、細い通り道ができた。
トーマがレオンの横へ寄る。
「下がるぞ」
「うん」
木剣を向けたまま、一歩引いた。
角兎は、まだ動かなかった。
*
腕が震えていた。
さっき角を受けたところが、じんじんと痛む。寝ている間の素振りでは、こんな感触を覚えたことがない。
獣が少し頭を動かしただけで、木剣を振りたくなった。
近づいてほしくない。早く、どこかへ行ってほしい。
レオンは奥歯をかみ、剣先を上げすぎないようにした。
ここでフルオートを動かせば、腕の震えは止まるかもしれない。
だが、同じところへ剣を出し続けたら、角兎が横へ動いてもついていけない。隣にいるトーマへ、剣先を向けてしまうかもしれなかった。
光の板は呼ばない。
自分で見て、動く。
「もう少し、こっちだ」
ガルドの声に合わせ、レオンは建物へ半歩寄った。
角兎の長い耳が、ぴくりと動く。
次の瞬間、土が跳ねた。
*
まっすぐ来ると思った。
けれど、角兎はレオンの左へ跳んだ。隣のトーマが、木剣を前へ出す。
レオンはそちらへ振りかけ、腕を止めた。
トーマの剣がある。
二人で同じところを振れば、木剣同士がぶつかる。
代わりに、足を引いて空間を作った。
トーマが横へ動く。角兎の角を正面から止めず、木剣を斜めに当てた。
硬い音がして、獣の身体が脇へ流れる。
「追うな!」
ガルドが叫んだ。
レオンも、トーマも、その場へ踏みとどまった。
角兎は一度振り向いた。
鍬と熊手が、地面をたたく。
耳を伏せた獣は、今度こそ空いた方へ走り出した。倒れた柵を跳び越え、畑の向こうの茂みへ消えていく。
草の揺れが、小さくなった。
レオンはまだ木剣を構えていた。
「もういい。腕を下ろせ」
ガルドに言われて、ようやく肩の力が抜けた。
*
宿屋の主人が裏口を開いた。
ミナは母親に抱かれ、扉の奥にいた。顔を見て、レオンは息を吐いた。
「大丈夫だった?」
母親がうなずく。ミナも、母親の肩に顔を伏せたまま、小さくうなずいた。
それを見届けると、レオンは木剣を下ろした。
指が、思うように開かない。
ガルドがしゃがみ、手のひらを見た。皮が少し赤くなっていたが、血は出ていなかった。
「痺れるか」
「少し」
「今日はもう振るな。冷やして休め」
レオンはうなずいた。
隣ではトーマが、袖で額を拭いていた。
「あんなに重いんだな。木剣、持っていかれるかと思った」
「うん……」
「お前、あれを先に受けたのか」
聞かれ、レオンは手元を見た。
斜めに出した木剣の表面に、小さな傷が残っていた。
「受けたというか、当たって、そのまま通っていった」
「俺もそうだ。止められなかった」
二人が黙ると、ガルドが立ち上がった。
「止めなくてよかったんだ。どかせたいのは、あいつの方だからな」
*
角兎は、畑で作物を食べていたところを見つけられたらしい。
追い払おうとするうち、細い柵を破り、宿屋の方へ来てしまったのだと、菜園の男が話した。
「騒がせてすまん。ここの穴も、塞いどく」
男は折れた木を拾い上げた。
レオンも籠を起こそうとしたが、ガルドに止められた。
「手を休めろと言ったろう」
「でも、転がったままだと」
「俺がやる。座ってろ」
レオンは井戸のそばへ戻った。
濡らした布を手のひらへ当てると、少し楽になった。
「剣術スキルがあっても、ああいうのは怖いんだな」
隣に座ったトーマが、ぽつりと言った。
レオンは顔を向けた。
「怖かったの?」
「当たり前だろ。角があるんだぞ」
言ってから、トーマは息を吐いた。
「叔父さんのところへ行かれたら嫌だと思って、出たけど。あとで膝が震えてきた」
レオンも、自分の膝へ目を落とした。
やはり、少し震えている。
「僕も」
「お前もか」
二人は顔を見合わせた。
笑いは出なかったが、ひとりで震えているよりは、少し落ち着いた。
*
家へ戻る道で、ガルドは普段よりゆっくり歩いた。
レオンは赤くなった手を見ながら、その隣を歩く。
「勝った、とは違いますよね」
「逃げていったな」
「はい」
「誰も角で突かれなかった。今日はそれで十分だ」
レオンはうなずいた。
木剣で倒したわけではない。大人が来てくれなければ、うまく追い払えたかも分からない。
それでも、今度は相手から目をそらさずに下がれた。横にいたトーマへ、木剣をぶつけることもなかった。
繰り返した動きの先で、今日は、自分で止まることもできた。
家に着くと、ガルドが扉を開けた。
「よく見て動いた。だが、次からは、大人を呼ぶ方を先に考えろ」
「……はい」
レオンは木剣を物置へ置いた。
夕食のあと、光の板を呼び出してみる。細い線は、いつもと同じ一本だった。
だが、文字は書かなかった。
動かせば痛くないかもしれない。けれど、手に何も起きなかったことにはならない。
レオンは板を消し、焼いた豆の包みを開いた。
ひと粒ずつ食べながら、明日、ミナがもう少し安心した顔をしているといいと思った。




